映画鑑賞1

①『ロード・オブ・ザ・リング』(ピーター・ジャクソン、2001年)★★★★☆☆
イライジャ・ウッドの顔がここまで彫りが深くかっこよくなければ、こんなにのめり込みはしなかっただろう。イライジャ演じるフロドは本作の主人公なのだが、常に果敢な勇者というわけではない。本当にひょんなことから物語に巻き込まれてしまった町の普通の少年だったのだ。だから旅の最中ずっと苦悩している。凛々しく立ち向かう演技よりもむしろ辛く、悩み、指輪を放棄したほうがよいのではないかと思案し続けるのだ。ここでの顔がすばらしい。かなりグッときた。あとは壮大で、ハリー・ポッターぽい映像がめまぐるしく押し寄せてくる。音楽もへんなこだわりがなく、世界観をしっかり盛り上げている。三部作のうちの一作目ながら180分と長い。しかし、とりあえずのボスのようなものがいるわけではない。本当に「続いていく」ことが強調されて終わる。各国に配給する際に三本セットの上映を確約させたそうだから、三本観た上でまとめてちゃんとした感想は書きたい。ここで言えることはとにかくイライジャ・ウッドがよかった、というただそれだけなのだ。

②『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン、2002年)★★★☆☆☆
一言でいうとゴラム大活躍に尽きるだろう。あの造形をつくりだして(モーションピクチャー)リアルなものとして現出させた意義は大きい。「ジキルとハイド」をやりきっている。微妙に髪の毛が生えており、それでとくに笑わせようとしているわけでもないのが笑える。今作も前作とおなじく180分ある。そして今作にももうひとつ言えることがあって、前作とおなじくストーリはすかすかに見えるということだ。ながらみをしてしまった自分も悪いが、入り込んでしまえる特別なストーリーはなかったように思える。それでもさすがに、ラスト近くになると悪役のいる塔の周りに水が押し寄せていき俄然面白くなっていくのだ。結局フロド&サム組と後続組が出会うことはなかったのだが、それはよかったかもしれない。なぜかといえば、フロドとサムは二人きりでいるべきなのだから。という、BL目線が育ってしまい、さながら壮大な『ブロークバック・マウンテン』として感受している俺がいた。わるそうな空飛ぶ化け物がフロドの指輪を獲りそうになった時のサムの決死の突撃。そして「俺らのこの物語が将来読まれていたら・・」という泣かせるくだり。サムが片思いではなく、フロドが思いやって被せてくる辺り。なんて素敵なんだと。ストーリーはダメダメかもしれないが、フロド&サムとそこにくっついていくゴラムがよく、たまに水攻めなど見せ場が有りそこも程よく楽しめる、そういう映画だった。壮大さは前作で知ってしまっていたから減点して三点。(このブログの補足に助けられた。「1」についてはこっち

③『シェイム』(スティーブ・マックイーン、2011年)★★★★★☆
ふかく胸にグッとくる映画だった。人物が動いているのに動いていないように見える。けれど実際には動いているからこうなってしまう。兄の家に転がり込んでくる妹。そういう設定なのは重々承知しているがそんなに簡単な倫理の話ではないだろう。妹は兄の会社の上司とすぐさま意気投合しものの数時間でセックスしてしまう。しかも兄の家で。兄は妹にオナニーを見られてしまう。セックスチャットも見られてしまう。想像する普通の家ではこのようなことは起こりえないだろう。しかし対人間というただそれだけを見つめれば人間の行為に枠はないのだから行為の制限は極端にしなくて済むだろう。冒頭の電車の中。セリフのまだ発されていないシーンにおいてすでに男の視線がこの映画を物語っていた。この男の性癖、つまりセックス依存症であるということに。だがこのまとめには難がある。そんなに気安く簡略化できない。兄弟間の性的なものの制限のつぎは、性的なものの抑制如何の制限がある。セックスの依存とはなにか? どれほどセックスを制限すれば通常であると言い切れるのか。この映画においてはそのように制限の根拠が問われる。はなから存在しない制限を、しかし私たちは常識という社会運営を円滑にする通念によって身につけてしまっている。この映画では制限のない者への懲罰はない。そのように倫理を規定する意図はない。ただ、制限のストッパーが普通ではない者がときとしてどのような状態に陥っているかを優れて描けている作品であるとは言える。

④『17歳の肖像』(ロネ・シェルフィグ、2009年)★★★★★★
シェイム』のキャリー・マリガン主演作。本当におもしろかった。すばらしい。ストーリーはオーソドックスなのかもしれないがだからこそ普遍的で、話のもっていきかたがよかった。キャリー・マリガン演じるジェニー・メラーは16歳。優等生だったがある日中年の男デイヴィッドと出会う。雨の日に楽器を運んでいたキャリーに声をかけてきたのだ。そこから二人の交友は始まった。それまで普通の高校生活しか経験してこなかったキャリーはデイヴィッドのおかげでさまざまな文化や社交を経験する。両親は無教養を取り繕い、中途半端な生活に甘んじる中流家庭といった趣きで、娘のことを頭ごなしに叱ってきた。だが、デイヴィッドが娘にとって有益だと悟るやいなや男を受け入れ、夜遅くまでの外出や外泊までも許可するようになる。アートのオークション、パリへの旅行など楽しい生活を共にしていたが、デイヴィッドは実は仲間二人と強盗を働いていたことが判明する。理解し難い行為に離れることも頭をよぎったが一緒にいることを決める。その後とんとん拍子で二人は付き合い、キャリーは初めてのセックスを経験。学業に力が入らず成績はガタ落ち、大人っぽい道具で遊び呆ける。デイヴィッドはついにジェニーにプロポーズし結婚することに。高校は退学することになった。ここでデイヴィッドに妻子がいると分かり、急転直下、ジェニーはどん底に。デイヴィッドは事情を説明せず車で逃げ帰ってしまった。学業をほっぽり出し担任には「あなたのようになりたくない」と突っ張ってきたジェニーだが、担任を訪問。救って欲しいと願いでる。「この言葉を待っていた」という担任の力添えもあって無事オックスフォード大学に合格したジェニーだった。この映画は原題を「エヂュケーション」つまり「教育」という。ジェニーは当初学校教育の中で優秀な成績を維持してきた。しかし、このまま優秀であり続け大学に入り卒業したってクソみたいな人生しか待っていないなら(先生たちのような)そんなものは捨ててしまえ。そうして実生活における経験の教育を優先するようになる。それがデイヴィッドとその仲間との交友だった。しかしそれは破綻し、再び彼女は学校教育を選択。くだらなく数十年後にはすっかり忘れてしまうであろうラテン語だってちゃんとしなくちゃいけない環境に身をおくのだ。ポイントしてはあれだけつまらない人生だとバカにした担任の先生が実は趣味人であったと判明する場面だろう。オークション会場で見たほど豪華ではないが、部屋には慎ましいラファエロ前派バーン・ジョーンズの絵画があった。ペーパーバックも置いてあったのだ。彼女はうまいこと学校教育的なものと文化・経験的なものを折衷して楽しく暮らしていた。そして奔放で取り返しのつかなくなりかけていたジェニーを救うことができた。彼女に出会えたことでジェニーはひとつの理想的な実践例を目にしたことだろう。逆に言えばジェニーは、ディヴィッドと出会い、外での経験に身を置かなければ担任の先生の良さには気づけなかった。複数の経験に身をおいたことでついにジェニーは自立し自分の行く先を見出すことができた。教育とはなにか、見事に描き出した作品といえるだろう。

⑤『いまを生きる』(ピーター・ウィアー、1989年)★☆☆☆☆☆
ピーター・ウィアーといえば『トゥルーマン・ショー』の監督である。アンドリュー・ニコルの脚本の力が大きかっただろうが、ウィアーも貢献したにちがいない。ということでテレビでやっていたので観ることにした。結論から言うと、苛々する出来だった。高校にロビン・ウィリアムス演じる教師が赴任してくる。彼は授業で詩を教えるのだが、いきなりページを破かせる所業にでる。詩を枠にはめて理論的に記述することに反旗を翻したのだ。だから生徒たちに読ませないために破かせた。ジョン・キーティングは自分をキャプテン(船長)と呼ばせ、突飛な教育スタイルで生徒を教えた。彼にそそのかされるかたちで生徒たちはより良い生き方を模索し、「死せる詩人の会」を結成する。これは原題(Dead Poets Society)にもなっている。「死せる詩人の会」ではかつての詩人たちの詩を集団で朗読した。そのうちに参加する生徒たちは自主性に目覚めだし、本当にやりたいことをやるようになる。エリート校で親による縛りがきつく弁護士や医者になることを望まれていた生徒たち。しかし、ある者は後先考えず彼氏持ちの女の子に告白したり、ある者はやりたかった演劇をやるようになった。こうして高らかな自由を謳歌し始めたように見える生徒たちだったが、演劇を見に来た少年の親が演劇をすぐさまやめるようにと怒った。その夜少年は自死した。「死せる詩人の会」のメンバーはキーティングの教育をよく思っていなかった校長とニールの親に呼び出され根掘り葉掘り尋ねられる。ついにはキーティングは学校を追われ、新任の臨時教師がやってきた。彼は詩の授業において破ったページを再び読ませる。荷物を取りに来たキーティングを見た生徒たちはかつてやったように教室の机に上り、先生に感謝を述べる。こういうストーリーなわけだ。これではどうにも腑に落ちない。というか、苛々してしまう。冒頭からの自由讃歌にまずは居心地の悪さを感じていた。ここが自由な校風をよしとする学校であり入学してきたならばこういう先生もありだろう。でもエリート校として生徒を託されているにもかかわらず、ありがちな自由を讃歌する方向に走るこの教師はかなり無責任に思えたのだ。キーティング持ち前のちがった教育をするならまだ分かるが、彼のやったことといえば教育というより放任だろう。そりゃ放任はロックでかっこよく生徒も追随するにちがいない。この結果、エリート育ちで枠組みにハマっていた子供たちが自由になるというのだが、生徒のひとりは死んでしまった。それについてキーティングは何も言わずに去ってしまうのはなぜなんだ。自由の謳歌の果てにはこのような苦しさもあることを伝えなくてはならないのではないか。自由の大切さを教えるのならば、裏側の辛さをも併せて教えるべきだろう。それをせずに生徒にわけのわかんない良心からの奮起をさせておいてほろりと涙してるんじゃねーよと思った。これは『スクール・オブ・ロック』と『17歳の肖像』を見たからこそ思ったのかもしれない。『17歳の肖像』では経験主義=キーティング的な自由への戒めを忘れなかった。両方の良さと悪さを見せた上で担任の教師の折衷にもっていく上手さだったわけだ。『スクール・オブ・ロック』ではそもそも教師自身のダメダメさがしきりに描かれるからこそ『いまを生きる』と同じような構造にもかかわらず不快感なくバランスを持って見れた。だが『いまを生きる』のキーティングは最後までかっこいい。かっこいいのなら責任のとり方もかっこよくあらねばならないだろう。

⑥『サイドウェイ』(アレクサンダー・ペイン、2004年)★★★★☆☆
ネブラスカ』がアカデミー賞にノミネートされたアレクサンダー・ペインの初期作。中年の仲良し二人組が、旅をすることになった。きっかけは片方ジャックの結婚。ワインを飲んだくれながらゴルフ三昧かと思いきや、実はジャックは性的に満足したいとも思っていた。旅先でひっかけた女とセックスを楽しむ。マイルスの方は2年前に離婚を経験し、女性に積極的になれずにいた。だがワインに詳しいマヤと出会い、彼女に惹かれる気持ちがあった。ある時、はずみでジャックが結婚予定であることをばらしてしまう。当然ステファニーに愛を囁いていると知っていたマヤは激怒。ステファニーとジャックの関係はおじゃんになってしまう。しかしめげないジャックは性懲りも無く残りの旅でまたターゲットを見つけ性行為に持ち込もうとするが、夫が帰ってきたため失敗に(要は相手は人妻だったのだ)。ステファニーから受けた生傷を隠すためにわざわざ車を破壊するなど工作を加え、二人は旅を終えた。ステファニーとの恋に燃えて一時は結婚の延期も思案していたジャックは無事に結婚式を迎え、渋っていたマイルスも出席。かつての妻に会ってしまう。妻の隣には現在の夫がいたが、夫は気を利かせて車に下がってくれた。離婚した妻には、ジャックとの旅のはじめに泥酔しながら電話をして嫌われていたのだった。ここにきてガツンときたのが妊娠しているという言葉。マイルスと彼女とのあいだには子供がいなかった。こうして疲弊したマイルスは帰宅すると留守番電話が入っていたことに気がつく。マヤがマイルスの本を読んだといい、たとえ出版されなくてもそれは素晴らしかったと言ってくれたのだった。マヤはワイナリーで働きながら大学で園芸学を収め将来はワインにより関わる仕事をしようと計画していた。もうすぐ大学を卒業するマヤは、引っ越してしまうかもしれないと言う。マイルスはこれを逃すと後はないとばかりに家を飛び出しマヤの家へ向かったのだった。マヤの家に手をかけた瞬間映画は終わる。総じて男版ビフォアシリーズ(リチャード・リンクレイター)のように会話劇が中心である。どでかい盛り上がりがあるわけではなく、登場人物の心理描写が丁寧になされていく。仲良し二人組は仲はいいのだろうがすべてが心通い合っているわけではないので齟齬も生じる。女性関係が絡んでくると尚更だ。そうして決断の後遺症に悩む男とこれから決断の意味を噛み締めていく男がその決断(つまり結婚)の狭間の束の間を楽しんでゆく。ジャックは自分でなんとかできる男なのでどうでもいいのだが、マイルスは行動力に欠けるし心もとない。ラストになって勇気を振り絞りマヤのところへむかった彼はこれから何が待ち受けていようとある程度は乗りきれるであろう力を手に入れたのだろう。

⑦『ハンナとその姉妹』(ウディ・アレン、1986年)★★★★☆☆
妊娠ってやはり大きなイベントなのだなあと実感した。『サイドウェイ』において妊娠させることのできなかったマイルスと元妻の現在の夫(妊娠させることのできた男)が会った時の圧倒的な格差からもはっきり分かることだった。本作『ハンナとその姉妹』はハンナと二人の姉妹とそのパートナーたちとの悲喜こもごもをえがく90分の映画である。軸となるのは年に一度のパーティーで、家族がそれぞれの現状を一望にできるまたとない機会になっていた。冒頭はパーティーから始まり、長女ハンナには夫が、三女リーにも夫がいた。ストーリーが進みにつれて長女、三女それぞれがパートナーとうまくいっていないことが明らかになってくる。ハンナの夫エリオットはハンナの勝気な性格についていけずリーに惹かれていった。リーはリーで画家の夫フレデリックとうまくいっていなかった。エリオットはリーにさまざまな文化的なものを教えてやり、お互いが相通じていく。ついにはセックスの関係にもなり、エリオットは一時リーから離れようと決意するもリーはフレデリックのもとを発っていた。そうこうするうちに次女で女優志望のホリーがクローズアップされる。彼女は貧乏でハンナに金の無心ばかり繰り返していたが一念発起して挑戦した小説の執筆に見事成功した。だがその小説はハンナ夫妻の私生活を明らかにするものだったのだ。情事の際にエリオットがリーに漏らし、それが今度はホリーに流れていたのだった。これが二度目のパーティーにおける家族の状態だった。そうして三度目、つまり一年後のパーティーの前に再び小説の執筆に取り組んだホリーはハンナの元夫でありウディ・アレン演じるテレビ関係者ミッキーに二作目の小説を読んでもらう。二人は急接近。三度目のパーティーにおいてリーは講座に通うコロンビア大学で見つけたとおぼしき新しい夫とともにおり、相変わらずハンナと夫婦を続けるエリオットはいまだに思いを持つリーを遠目から眺めていた。そしてホリーとミッキーは結婚していたのだった。ハンナの望みにもかかわらずエリオットは子供を作りたがらなかった。ミッキーはハンナの願いむなしく精子の数が少なく子供ができなかった。しかしラストにおいてホリーはミッキーの子供を妊娠していると明かすのだった。三度のパーティーという分かりやすい時間軸のなかで家族の関係性をうまくシャッフルして見せ、軸に沿わすかたちで「妊娠」が主要なテーマでもあった本作。ストーリーテリングはうまく、随所に自分の見せ場を持ってくるウディ・アレンの手腕は可笑しく見事なものだった(急にホリーにスポットが当たりだしたのは笑えた)。ギャグは少なめでシリアスな路線だったが、退屈せず楽しむことができた。

⑧『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(ピーター・ジャクソン、2003年)★★★★★☆
ついに長い旅は終わった。フロドたちも大変だったとはおもう。だけど観ている俺らもなかなかに大変だったよと。九時間にわたる指輪物語が幕を閉じた。ついにフロドとサムはモロドールに辿り着き指輪をマグマの中に投げ込んだ。こうしてサウロンは力を持ち復活することが防がれ、アラゴルンが無事に王位を継承するに至った。ストーリーをこう書いてしまうと呆気ないものだ。おそらく三話をあわせてもストーリーの概要はいとも簡単に書ききれてしまう。それが三話に渡って展開されなければならなかった理由はまず原作が三巻本だったことに由来するのだろう。監督は原作に忠実であることを最も重視したようだから。ほかにも理由はきっとあって、簡素にしすぎると物語に重みがでなかったというのが挙げられるだろう。長時間物語に浸らせるからこそ体感してもらえるものがあるはずだという考えだ。予算的に三本に分けてきっちり収益を上げたかったという皮算用も働いたにちがいない。そんなこんなで終わったロード・オブ・ザ・リング、つまんなかったところとおもしろかったところを書いてみたい。つまんなかったのは、よくわかんない戦いがいっぱいあることだ。第三作目などとくにフロドとサウロンとの全面対決に的を絞ってもいいはずなのだ。なのにフロドとサム組以外の人らは勝手にほかの国となんかやっている。それがうまく本線に合流すればいいものだがそうもならない。話を壮大にしたいのは分かるが、これはいらんいだろう。興が削がれる思いがした。もっと簡潔にして物語に没入させたほうがいいはずだ。サウロンの姿が見えないのも気になった。塔の上にボヤボヤでている炎の裂け目みたいなのがそれなのは分かるが、これまではガンダルフにしろ籠絡されたサルマンにしろいかにも魔法使いのような出で立ちだった。人物として現出しないから誰と戦っているのか分からなかった。それは一番大事な指輪をマグマに投げ込むシーンにも繋がっており、ゴラム(スメアゴル)との戦いは当然あってしかるべきだろうが、誤ってゴラムが崖から転落してしまいその拍子に指輪も一緒に落下したというのはいくらなんでもダメだろうと思った。そこは本来はフロドの意志でなければならない。指輪の魔力によって突き放すのは難しいがなんとか邪念を払い自ら落下させるという流れにはできなかったものか。あれだと故意ではなくゴラムのせいで落ちてしまったということになってしまう。よって指輪の末路があまりにも情けなかった。よかったところはゴラムの造形と魅力的なキャラクターだ(木の髭も造形はおもしろかった)。彼のおかげ最後まで寝ずに観れたとも言える。ゴラムは自らの中に二つの声を抱えている。指輪をいますぐにでも盗み出したいという悪の声とホビットの役に立ちたいという善の声だ。いつまでたっても解消されずついにマグマに落下するその時まで二つの声はやまない。この人間的な欲望をあからさまに溢れ出させる態度は卑しく、そして気にならずにはいられない存在だ。そんなゴラムと常に心理戦を繰り広げたサムも魅力的だ。ただのデブのはずが彼は物語の鍵になった。フロド、サム、ゴラムの三角関係というか人間関係はどっちつかずで鑑賞者の興味を惹きつけ続けた。あとはなんといっても世界観の創出だ。これは画期的だと言われておりだからこそ多少物語がつまらなくとも歴史的傑作と言われる所以なのだろう。自分としてはいささか慣れてしまうい食傷気味であった。気になったことは、フロドとサムの関係性だ。一作目の最初ではただの仲良しという感じに見えたが歴然とそこには身分差があった。どちらもただのガキなのだが、サムはあくまでもフロドの配下だった。いまさら身分制を批判するつもりもないがどこか悲しいものがあった。なにかを得にいくのではなく手放しにいくストーリーは終わってみるとなかなかおもしろかったように思う。

⑨『ファミリー・ツリー』(アレクサンダー・ペイン、2011年)★★★★★☆
アレクサンダー・ペインで観るのは二本目。監督のテイストが少し掴めてきた。弁護士のマット・キング(ジョージ・クルーニー)は家族とハワイで暮らしていたが、あるとき妻がボートで事故に会い入院。植物人間の状態が続くことに。家族仲があまりうまくいっていない娘とも話さざるをえなくなるが、妻が他の男と不倫していたことが明らかになる。一方、マットの兄弟は親からハワイの土地を譲り受けていて、権利が失効してしまう前に転売しようと考え譲渡先が決まりかけていた。マットは不倫の相手に探りをかけるうちに、この譲渡先が実は不倫相手の兄だということが分かる。手付かずだが広大な土地を愛していたマットは前言を翻し譲渡を取りやめたいと言い出す。妻の不倫相手は結局対面しただけで見舞いにはこなかったが不倫相手の妻は来てくれた。妻は死に海に骨を撒き、家族は三人になって睦まじく暮らしていく。原題は「The Descendants」つまり「子孫」。譲渡をやめた土地は先祖から受け継がれたものだし、妻のあれこれをこなすうちに絆が深まった家族もキングにとっての子孫たちだ。うまく機能していたのが、まずは妻アレクサンドラの両親だ。頑固者の父親はマットが妻をふかく愛していなかったのではないかと糾弾する。堅実な生活をモットーにしていたマットが新しいボートを買わなかったせいで事故が起きたというのだ。アレクサンドラの病室の中でもおかまいなく土地の売買額の話をする始末。もう一人は娘スコッティの彼氏シドだ。彼は敬語も使えないバカだが、同時にそれは正直者の証にもなっている。アレクサンドラの父にやり込められた時にはマットを救い、浮気相手が発覚し憔悴するマットに「俺ならぶっ飛ばしてやる」と励ます発言をする。トリックスターのようだが実はうまい弛緩剤になっているのだ。このように人間関係の密な部分が蠢くストーリーにおいて鍵となってくるのが、妻アレクサンドラの尊厳死だろう。マットは大事にしてやれなかった妻がもう意識を取り戻さないと分かって苦しんだが、同時期に浮気が発覚したことで責める気持ちも生まれた。複雑な事情を抱えてしまったわけだ。事実、浮気発覚後最初に病室を訪ねた際には、反応があるはずもないのに延々罵倒を加えている。アレクサンドラの父、自分の娘たちの発言を加味しながらどのように振る舞うべきかマット自身散々迷っただろう。シドにまで相談する始末なのだから。ここで彼に与えられたのが妻の尊厳死の遂行なのだった。妻は尊厳死を実行してくれるように事前に自ら願い出ていたのだが、それを無事遂行させるにはマットが必要だ。マットは愛せなかった後悔と浮気への怒りという二分した気持ちの決着がつかないまま、どのような心中で尊厳死を見守ったのだろうか。

⑩『アナと雪の女王』(クリス・バックジェニファー・リー、2013年)★★★★★★
素晴らしかった。なんといっても良かったのは雪の女王エルサによって心臓が凍ってしまったアナが快復する場面である。さんざんアニメの中でも愛が氷を溶かすと吹聴され、一度はハンスにその役目があるように思われた。しかし彼は「心が凍った唯一の人間」であり、どうしたってクリストフに期待は高まっていた。役に答えるためにクリストフは特等席にギリギリでたどり着いたのだ。あとはクリストフがアナにキスすればすべてが美しく収まる。観客の期待はそれしかなかったのだ。驚くことに、アナの氷を溶かしたのはエルサだった。エルサとアナの姉妹愛がエルサの気持ちを柔らかくしアナが患っていた心臓の氷を溶かしたのだ。かつてこのようなことがあっただろうか。つがいの男が正念場に居るにもかかわらず関わらせてもらえない。痛快だった。『モンスターズ・ユニバーシティ』で倫理の更新の萌芽はたしかにあったのだが、こうも新しいことができるとは。不意打ちをくらったがだからこそより一層深い感動があった。そんな野心的な物語をさまざまなものが幸福に支えている。まずは音楽だ。ディズニーにはなぜいつもこのように素敵な音楽が寄り添うんだろうか。驚きだ。もうひとつはアニメーションの面白さである。ここでは二つのみ指摘したい。ひとつはハンナの城のちかくの崖から落ちた雪だるまが一度クリストフの足を自分のものと勘違いするところだ。雪だるまの足と思わせておいて後方からクリストフが起き上がる一連の動作に感銘を受けた。もうひとつは終わり近く雪だるまの鼻の人参が飛んでトナカイに当たりすぐさま雪だるまに戻るシーンである。ここも動画的な面白さにあふれていた。幼少のアナをエルサの魔法が傷つけてしまったことからエルサは幽閉され力を行使できなくされていたがアナが引っ張りだしたパーティーで爆発。心を閉ざしたエルサは山奥に自分の城を築き引きこもってしまう。そこへアナは途中で出会ったクリストフと共に向かうが聞き入れてもらえない。アナといい感じだったハンスは山奥に向かい武力でエルサを捕えてしまう。ハンスは13人兄弟の末っ子で王位を継げないためにアレンデール王国を乗っ取ろうとしていたのだ。エルサによって心臓に魔法をかけられたアナはハンスとの愛で魔法を解くのが困難となりクリストフとの愛に賭けることにした。そういう流れの中での兄弟愛による解決だったのだ。ラストで泣かせたのは、幸せの舞台の実現が凍らせる(原題は「Frozen」)ことによって成されたことだ。猫も杓子もエルサによってもたらされた冬を嫌い、春の到来を待ちわびていた。それは雪だるまにしてもそうだった。こうして解決をみた段になって再びエルサの凍らせるという魔法が肯定的に使われ、みなの幸せの支えになった。こんな素敵な映画があるだろうか。

⑪『ハート・ロッカー』(キャサリン・ビグロー、2008年)★★★★★★
まごうことなき傑作。去年『ゼロ・ダーク・サーティ』を観て退屈ですごくつまらなかった印象しかなかったのに本作がこうもいいと再見しなければと思えてくる。アカデミー賞作品賞と監督賞をダブル受賞した作品。イラク戦争中のバグダッドが舞台になっており、アメリカ軍の危険物処理班ウィリアム・ジェームズ一等軍曹(ジェレミー・レナー)が主人公。冒頭から終わりにかけてジェームズの任務明けが近づいていく。もちろん物語の醍醐味としての話が進むごとに鑑賞者がわかることは増えていく。しかしながら話の大部分は「終わりなき日常」のような代わり映えのない日常である。ただそれがセカイ系的な穏当なものではなく、常に死と隣り合わせだがそれをできるだけ意識しないように意識された「終わりなき日常」というところが違うのだが。だから兵士たちの毎日はとても過酷に思える。だんだん話がストーリーテリングされるのであれば物語として受容できるからこちらとしてもいいものの乱発的な日々だから、生身の戦場生活として受け止めざるをえないからだ。そんな乾いた戦場のなかにもドラマ性はある。仲間同士の暴力と結びついた友情や、現地のDVD売りの少年との交友などだ。冒頭から本当にこわく仲間にも厳しいジェームズだが、少年とは冗談を言い合いながらサッカーにいそしみ心躍っているのがわかった。「終わりなき日常」にドラマが加わった瞬間だった。こういうのがあると鑑賞者としても取っ掛かりを持ちやすい。しかし脆くもそんなドラマ性のある日常は壊される。仲を築いた同僚はあっけなく死に、少年も爆弾を腹の中に入れて殺されていた。こうなれば感情としてはドラマなど必要としなくなる。一喜一憂していれば頭がおかしくなってしまうから。こうして兵士たちは感情を薄めていく。感情の起伏のない兵士たちは淡々と任務明けまでの毎日を送っていく。興味深いのはジェームズの得体が知れないことだ。掴みどころがない。こうした感情に軽重をつけないほうがやり過ごせる業務においてなお彼は突発的な行動を繰り返す。ただ普通に業務をやれない。爆弾処理においてもそうで勝手にイヤフォンを外して指示を聞けないようにしてしまい怒られたりする。それが極まったのがラストちかくの爆弾処理だ。現地の人間が体に爆弾を巻かれたと騒いでほかの兵士が銃殺してしまおうと提案する中、ジェームズは取り外そうと任務に入る。結局取り外せず爆弾によって現地人は死ぬわけだが、このジェームズの衝動はいったいどこから来るんだろうか。任務を終え本国に帰還し家族との生活に入るもどこか上の空。スーパーに買い物にいっても大量に並んだコンフレークの前でぼーっとしてしまう。妻はジェームズの話を受け流し、人参を切れという始末。ジェームズたち兵士によって「終わりなき日常」として片付けていた(片付けないとやってられない)生活は、本来は終わりある、それだけでドラマに溢れた日常だと一般的に受け取ってもらえないとやっていられないはずなのだ。だって生と死の狭間における日常なのだから。それが特別なものとされないなか息子に語りかける。「いまお前が好きなモノはいつか特別ではなくなる。好きなものなんてほんのひとつかふたつ。俺はひとつしかない」そうしてジェームズは再び戦地に赴く。これは平常心と非日常の感情の機微をうまく捉えた映画で、戦争のすごみが特別な味付けがなく伝わってくる。驚かせようという力みがない分、伝わり方がストレートだ。手ブレ映像などかなりのこだわりがあるはずなのにプレーンだ。このニュートラルな「終わりなき日常」のような普通さが、だからこそ意味を持ち恐ろしい。

⑫『ネブラスカ』(アレクサンダー・ペイン、2013年)★★★☆☆☆
うーん。アレクサンダー・ペインをここのところいくつか観てしまったのが原因なのかいまいち楽しめなかった。当選したとされる賞金を受け取りに行くためモンタナ州に住んでいる父と息子がネブラスカ州へいくロード・ムーヴィ。映像はモノクロ。父ウディはブルース・ダーンが演じている(アカデミー賞主演男優賞ノミネート)。父は高齢で話はゆっくりめなんだが、妻はいつでも悪口を当たり散らしている。息子デイヴィッド(ウィル・フォーテ)は比較的穏やか。久しぶりに故郷ネブラスカに立ち寄るとかつての仲間が歓迎して出迎えてくれる。『サイドウェイ』のような雰囲気でお酒を旧友たちと楽しむ。どうやらこの父親は昔から大きなことを言いたがるようで息子はみなもそれを知っているかと思いきや、かつての仲間たちは100万ドルの賞金に大はしゃぎする。ついには昔金を貸しただの助けたじゃないかだの言ってお金にたかる始末(それを追い払うのは妻だ)。結局当選がどうやら間違っているらしいと分かると手のひらを返したかのようにバカにするのだった。このような現実を見せつけられたあと、息子は受け取りに行っても無駄だからもう向かいたくないと言う。だが父親は諦めない。一瞬の逡巡もなく行くのが当たり前のような顔をする。もはや賞金があろうがんかろうが構わないのだろう。ちょっとしたことが彼の執念になっていた。賞金はなく代わりに帽子(PRIZE WINNERと書かれている)をプレゼントされた親子は一路モンタナに帰る。きけば父は息子に何もしてやれなかったからこの賞金で息子のためにトラックを買い与えたかったという。一方息子は父にトラックを(乗っていた乗用車と交換して)プレゼントする。借りたまま返されていない空気圧縮機もスーパーで買い贈る。父とかつて恋仲だった女性の横を通り過ぎ、最終的には父親がハンドルを握り、運転はまだまだ続くのだった。ペインっぽさだけを受け取りたいならこれでいいのかもしれないけどそれを逸脱するなにかはなかったように感じた。父が何もやれていないと吐露する場面にはグッときたのだけれどね。

⑬『地獄の黙示録』(フランシス・コッポラ★☆☆☆☆☆
よくわからなかった。名作というかレジェンドレベルの作品だからと観てみたのだけれど。最初から最後までながら見をしてしまうほどひきつけられなかった。引退していた兵士が呼び戻されて軍を裏切った大佐を殺しに行く話。えんえんベトナムの大地と船上の生活が続いて全然だめだった。飽きてしまって。とくに言えることは何もないレベルで理解もできなかった。単なるシリアスな戦争ドラマに仕立てたくなかったということなんだろうか? 戦闘シーンはかっこいい部分もあり、どんちゃん騒ぎの空虚さというか常軌を逸した様も描きたかったのだとおもう。後半になってカーク大佐の陣地に入りベトナム人がでてくる。これが人種差別という批判があるらしい。たしかにそれは言えそうで苛々する部分もあった。情念のようなものが漂っている気もした。でも本当に久しぶりに興味を最後まで持てない映画だった。もう観なくてもいい。

⑭『ビル・カニンガム&ニューヨーク』(リチャード・プレス)★★★★★★
おもしろかった。現在はニューヨーク・タイムズのファッション紙面を任されているビル・カニンガムのドキュメンタリー。彼はファッションの生き字引。オートクチュールからプレタポルテに流行が移っていった60〜70年代。当時はメゾンが自前の写真を報道各社に送るのが普通だった。だから実際のショーに写真を撮りに行く必要性を感じているメディアは少なく現にビルともうひとりだけだったそうだ。そこから彼は路上の洋服を撮り続けた。アメリカの今和次郎と言ってもいいかもしれないその記録は、ファッション史における重要な参照項となっている。このようにファッションの虜となった彼だが決してファッションに付随する社交に実利があると思っているわけではない。本当にただファッションが好きなのだ。パーティーは写真を撮る重要な機会だ(日本にはないがアメリカだと「社交欄」がある)。パーティーにうつつを抜かして食事をしたりアルコールを摂取したり話し込んでもいいはずなのに彼はそうせず頑なに拒む。ただ写真を撮れればいい、撮らなくてはならない、そういう男なのだ。チャリティー事業のパーティーにはとりわけ顔を出し「社交欄」の位置づけにこだわるビルは、パパラッチとは一線を画している。彼らのようになれないという。テレビはないし映画も見ない。俳優よりもその服にこそ関心があるのだ。ついにはその業績が評価されてパリで勲章が授与される。彼は自分が大それた人物だと思っていないだろう、だからこそ授与したかったのだとは授与者の言。マディソン・スクエア・ガーデン(じゃやなくてなんだったけかな)の最上階のアパート部分は開け放されることになり、抵抗を続けてきたもののついに引っ越すことになった。ウォール街ではファッション関係者もデモを起こし声を上げている。すべてが一筋縄で行くことではない、それをちゃんと描けている。このドキュメンタリーの撮影者はついにビルに踏み込んでいく。あなたの家族はどんな方々なのかと。ドキュメンタリー内ではビルが裕福な家庭の育ちではないかと撮影された女性のひとりがいっていた。だがそうではなく、ワーキングクラスの質素な家庭だったという。一時は従軍をしており(従軍は自分にとって当然だとイキイキと語っていた)、その後ファッションカメラマンになった。恋はしてきたかとの質問には、していない、暇がなかったと答えるビル。ゲイかという質問ははぐらかした。ただ女性の服と帽子が好きだったというのだ。最後の質問は、信仰についてだった。彼は深くうつむき考えこむ。これまでは陽気だったのに一転してだ。そうして重要なものだと答える。やはりここには狂気がある。この男はとんでもない。そう実感させる箇所だった。ファッションの華やかさに惹かれそこで仕事をするも一歩距離をとるビル(料理には頓着しないし、喫茶店も高級店ではない)。明るく楽しく好奇心に開かれている男だと思いきや(雨の日のファッションを撮り無防備な姿を載せるという大胆さ!)、信仰や恋愛、友情観には尋常ならざるものを感じる。それらをひとまとめにして変に加工することなく見せつけた、愛すべきドキュメンタリーだった。

⑮『グリーン・ディスティニー』(アン・リー、2000年)