メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年

メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年

メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年

プロローグ
第一章 もはや写真ではない
第二章 けれど、ここで生きている
第三章 もっと命を燃やすために
第四章 読むべきものなのか、わからない
第五章 あなたが殺したのですか
第六章 死に追いやるために
第七章 美しく、晴れ晴れと
第八章 覚悟はできている
第九章 語りえない孤独
第十章 一回限りなのか
第十一章 訊けば、終わらなくなる
第十二章 すべてから、遠く
エピローグ

びっくりするぐらい面白かった。著者と古屋の関わりを丁寧に追っているだけの著作なのかな?それだと少し味気ないな、など思っていると、飯沢耕太郎荒木経惟のインタビューあたりから毛色が変わりだす。二人とも率直に古屋のことを語るのだ。飯沢は投げやりとも思える言い方で、「ついていけない」のだと口にするし、荒木は当人との類似よりも自信の欧州への紹介者としての古屋を強調する。深入りはしたくない、とでもいうように。
本書の魅力は、著者と古屋との距離の取り方の絶妙さにこそ集約されるだろう。ただの弟子であれば、好意的な側面しか切り取らない。しかし、著者はそんな表面的な好悪の先に、忠実に分け入ろうとする。『1983』出版を受け止めきれなくて二次会に初めて参加しなかった旨をそのまま書くし、本当に知りたいからこそ息子へのインタビューを企図する。
そんな正直な気持ちが先走ることで、本書は『メモワール』と同じく、独特な雰囲気を醸す二人の関係の書になった。

いとうせいこう
なぜ撮ったのか、思考を迫る言葉
 小林紀晴は写真家であり、同時に抑制の利いた文章を書く作家である。その小林が取り憑かれるように写真家・古屋誠一を追った長い年月の記録、思索が本書だ。
 最初は1991年。著者は古屋の写真展に出かけ、古屋が精神を病んでいく妻クリスティーネを撮り、“負のエネルギーが充満”した風景を撮り、ついには投身自殺直後の妻を撮った写真と出会う。
 衝撃を受けた著者はその後、ニューヨークで同時多発テロに出会い、無性に現場を撮りたいと思う。しかし日本で体験した大震災では今度は撮ることを躊躇する。
 なぜ撮るのか。撮っていいのか。なぜ発表するのか。発表していいのか。表現の根幹に潜む倫理、自意識、権利などの大問題を小林紀晴は背負い込む。なぜなら、古屋誠一が妻を撮った写真が、そして古屋が写真集に書き込む言葉が小林に思考を迫るから。
 ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』に引用されたプラトンの言葉を、著者は冒頭に孫引きする。「お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ」
 悲痛さ、残酷、災いを〈呪われた眼〉は見ようとする。その卑しくも根源的な欲望に私たちは常に突き動かされる。写真家ならばなおのこと、その〈眼〉で記録をしてしまうかもしれない。
 2000年。オーストリアの古屋を著者は訪ねる。何が古屋とクリスティーネの間にあり、彼はなぜその狂気を撮ったのか。死を撮ったのか。そして、なぜ発表するのか。問いはそれから10年以上かけて古屋と共に世界を移動しながら投げかけられ、自問自答される。時には事が起きた現場、ベルリンにまで二人は共に足を運ぶ。
 その間も、古屋誠一による過去の写真を編んだ書物は出続ける。次第に、写真集にクリスティーネの「手記」からの言葉が引かれるようになり、事実は多層化する。
 同時に本書自体にも写真集に載った古屋の文章、聞き書きによる話し言葉の再現、国を越えてやりとりされるメール、写真が無言であらわす事実、クリスティーネのノートからの言葉が錯綜する。
 様々なレベルの言語が重なって迫ってくる様子はもはや小説としか言いようがないのだが、そこに一人の女性の狂気と死が確かにあったことは、口絵に印刷された美しくも恐ろしいクリスティーネの写真のまなざしが証している。だから読者は引き裂かれる。何が真実であり、何が思い込みなのか。
 しかも本書は古屋によって読まれる。読まれてしまえば古屋の思いに影響が出ないとは言えない。すべてが藪の中に入る。
 客観取材のあり得なさを含め、やはりこの本はあらゆる表現論の息苦しい核心を突いてやまない。

野崎歓
写真家はなぜ自殺した妻を撮ったのか
 古屋誠一。世界的に有名な写真家なのだが、恥ずかしながらぼくは何も知らずに読み始めた。たちまち引き込まれ、ページを繰る手が止まらなくなった。

 著者は古屋誠一に魅了された人物である。オーストリア在住の古屋のもとをたびたび訪れ、話を聞き、作品の謎を解く鍵を求めた。二十年におよぶ辛抱強い探索が、本書に結晶した。

 古屋の仕事は究極的には一点に尽きている。妻の写真である。オーストリア人の妻は、古屋とのあいだに一児をもうけながら若くして精神を病み、投身自殺した。古屋は妻の姿を集中的に撮っていた。アパートの九階から彼女が飛び降りた直後にも、わざわざカメラを取りに部屋に戻って、地面に倒れた妻の姿を撮影したのである。

 著者は二十年前にその写真と出会ったのだ。そこで覚えた驚きと疑問が本書を貫いている。なぜ自殺した妻を撮ったのか。よほど心の冷たい写真家なのか。妻の自殺自体、夫に追いつめられてのことではなかったのか……。ひょっとしたら、他者にカメラを向けるとは本来、残酷さを秘めたことなのかもしれない。しかも撮った人間の一生を変える力をも、写真は及ぼす。

 古屋はその後の人生で新作をあまり撮らず、亡き妻をめぐる写真集を編集し直す作業に没入する。延々と死者との対話を続ける姿には鬼気迫るものがある。

 自ら心に痛手を負いつつ、彼はその傷を直視することをやめず、俗世から隔絶されたポジションに立って、ひたすら自己の過去と向い合う。その様子は、きわめて鎖された印象を与える。同時に、冥府をはてしなくさまよい続けるような彼の旅路は、妻に対し誠を尽くすものとも思える。死者を忘れることを自らに許さない峻厳な態度によって、古屋の姿はどこか、世俗を離れた求道者に似る。

 実はその裏に、母を喪った一人息子への想いがあったことが明かされる。写真集は、事件当時四歳だった息子に向けた究極のコミュニケーション手段だった。著者は寡黙な写真家から、ぎりぎりの真実を引き出すことに成功している。

 同時に著者は、古屋の作品から9・11、及び3・11での報道写真のあり方へと思索を深めていく。カタストロフを前にしてなお表現意欲をかきたてられる写真家の業の深さは、現代人だれしもの内にひそむ「呪われた眼」の存在を照らし出さずにいない。

 著者の文体は透明で、抑制が効いている。落ち着いた筆致で、われわれを戦慄的な創造の核心へと導いていく。「写真文学」の鮮烈な傑作がここに誕生した。

飯沢耕太郎
写真をめぐる本質的な問い

石田千
越えてしまった闇
 小林紀晴さんは写真家で、小説も発表している。今回は、オーストリアグラーツに住む写真家・古屋誠一を、十年に渡り取材、記録した。
 険の刻まれる眉間、サングラスのおくの大きな黒い瞳、口ひげに白が混ざる。やや小太り。小林さんが撮影した古屋は、淡く、やさしい緑のなかに立つ。写真家どうしというよりも、著者のまぶしげなまなざしが、触れることを許された。
 二十三歳で日本を出た古屋は、オーストリア人女性クリスティーネと結婚。彼女の肖像を発表していく。
 グラーツを訪ねた小林さんを、古屋は自宅に招き手料理でもてなす。客にビールをすすめ、じぶんはハーブのお茶を飲む。酒で体を壊していた。カモミールという薬草は、鎮静作用があるという。それは、長く孤独な時間のなかで、求めても得ることのない心もちだった。
 一九八五年、精神を病んだクリスティーネは家族が住むアパートから身を投げた。その後古屋は、亡き妻の肖像作品集を執拗しつように編み続ける。
 発表すればするほど、許しを乞う自分がいる。追いつめ、殺した。黒い瞳を発見する暗室は、境界の檻おりとなる。生死、善悪、愛憎、狂気と正気。レンズ越しの、あなたとわたくし。
 作品評価は割れている。小林さんは、古屋に詳しい写真家や評論家の意見をきく。一方古屋の信頼は深まり、ふたりは夫婦の軌跡をたどる旅もする。そして十年、誠実な取材者は、自身の渇きに気づき、決定的瞬間に踏み入る。
 ……なぜ、撮ったのですか。
 古屋誠一は妻の自殺をみとめると、自宅にもどりカメラをつかんだ。九階の廊下に残った彼女の履物。そして、地上にうつぶせに横たわる遺体を撮影していた。
 若い古屋は、おそらく無邪気無自覚に境を越えた。
 四十五歳になる著者は、だれも助けられない闇を、あえて見た。
 このさきに、古屋誠一はいない。ひとり行かなくてはならない。

堀江敏幸 毎日新聞

佐久間文子 新潮45

安東嵩史 STUDIO VOICE

東京都写真美術館


清水譲 古屋誠一:開かれたメモワール