千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』
- 作者: 千葉雅也
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/10/23
- メディア: 単行本
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現代思想、ポスト構造主義の次には何があるのか?昨年の『現代思想』「現代思想の総展望2013」では「3・11」という時制を引き受けつつ、各分野の再編としかるべきアジェンダ設定を試みた。そして、本特集ではドゥルーズ=ガタリらポスト構造主義を批判的に引き継ぎつつ、社会構築主義の悪しき相対主義とニヒリズムによって停滞しかかった思想状況を乗り越えるために、自然的世界の「リアル」と対面する新種の〈哲学〉をもって、社会へのラディカルなコミットメントの道筋を模索していく。
【討議】大澤真幸×成田龍一
【討議II】千葉雅也×清水高志
【討議III】村上靖彦×西村ユミ
【論考】中沢新一/近藤和敬/小泉義之/篠原雅武/池田剛介/金森修/岡本賢吾/野内怜/Q・メイヤスー/G・ハーマン/大村敬一/里見龍/M・デランダ/郡司ペギオ幸夫
つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん:朝日新聞デジタル
浅田 「接続過剰」な社会では、相手を傷つけてはいけないという予防的な「思いやり」(それは相手に反発されたくないという自己防衛でもある)がコミュニケーションを貧しくしてしまいます。そこでは批評が不可能になる。「仲良くけんかしな」というルールの下でほめると同時にけなすのが批評なので、けなすとコミュニケーションが断絶するのでは批評は成り立たない。「壮大な失敗作だ」というのは最高のほめ言葉でもあるのに、そのニュアンスが伝わらなくなる。かわって、書店員の書く「ポップ」やネット書店の読者によるレビューが重視されるけれど、それは商品の紹介や消費者の感想であって批評ではない。
千葉 そもそも批評は、ハラスメンタルなものですからね。
浅田 千葉さんの「切断論」はいわば「不良の思想」であるところが面白い。例えば、デリダの責任論というのは、「責任が取れないことに責任を取る」という思弁的な議論だけれど、それを現実に適用しようとすると、おおむね優等生の生徒会長みたいな議論になる。(...)今の「若手論客」と呼ばれる人たちも総じてそんな感じでしょう。ネットを通じて、これまで無視されてきたマイノリティーの声なき声にも耳を傾けよう、うんぬん。(...)具体的には部分的情報社会工学でやれることはどんどんやったらいいと思う。しかし、それは哲学や思想の問題ではない。哲学や思想とは、可能な範囲で工夫することではなく、可能な範囲そのものを考え直す過激な試みだったはずだから。
國分功一郎 「いい加減」な生の姿を記述
人間は実際には、いろいろなことをごまかしながら、なんとなく「仮のマネージメント」を行って生きている。千葉は、そうした我々のいい加減な生の姿から目を背けない。そして、精神分析などの高度な理論を縦横無尽に駆使してそれを記述するのだ。これは本書が、日常の生を語りつつも、哲学の通俗化には陥らず、むしろ哲学そのものの中に、新しい論述の水準を創造していることを意味する。
(文芸時評)ドゥルーズと現代 八つ裂きになる理性、鮮烈に 松浦寿輝
哲学者ドゥルーズについてはすでに多くの解説書や研究書があるが、千葉雅也の著作は解説とも研究ともいささか異なる欲望に衝き動かされて成った一書と見える。千葉氏はドゥルーズの数多の著書を克明に読み解きつつ、置くべき箇所に重点を置き(しかじかの側面を「強く読むなら」といった表現が随所に出てくる)、ときには思いきった戦略的省略を重ねて、二〇一〇年代の今、二十世紀のドゥルーズ思想をどう「利用」しうるかという問いにスリリングな回答を提起している。
彼が「強く読む」のはドゥルーズにおけるヒューム主義の側面だ。連続性と全体化を強調するベルクソン的形而上学もドゥルーズの中には当然あるのだが、当面それは括弧にくくってみる。そして、世界内の個物は不連続的に離散し、すべての事象はあくまで偶発的に生起すると考えた英国の哲学者ヒュームの経験論の方を、その思想的射程を可能なかぎり拡張しつつクローズアップしてみること。この大胆な思考実験を通じてドゥルーズの「ポップ」な哲学がみずみずしく蘇生し、それがまた「動きすぎ」「繋がりすぎ」の病弊に取り憑かれた今日のわれわれへの警世の教えともなる。
海彼にましますご本尊に向かってひたすらかしわ手を打つばかりといった、明治以来のわが国の西欧文化受容の宿痾はここにはもはやかけらもない。大思想家の遺産の忠実な番人になるのではなく、それをどう「利用」してわれわれの現在の生に役立てるかをまず問うこと。アカデミズムの知的モラルを堅持しつつ、そうした軽やかな運動能力をごく自然に駆使できる若い世代の出現を慶びたい。
この姿勢を安易に「文学的」と呼んでしまうと、哲学論文の厳密性の水準を固守しようとしている著者の方法論に対して失礼に当たることは重々承知している。しかしある作品の一面を、我田引水の謗りを恐れず強く深く読みこみ、読み抜き、それによって作品に潜在する可能性の豊かさを一挙に引き出そうとする勇気こそ、優れた文芸批評に必要な第一条件であるはずだ。本当は哲学よりもむしろ文学でこうした「読み」の力業が実践されるべきなのだ。この欄であえて本書を取り上げたゆえんである。
佐々木敦
繋がり過ぎる時代、あえて留まること
思想家を論じるには大きく二通りの方向がある。「○○は何を考えていたか」と「○○から何が考えられるか」。もちろんどちらかを選ぶということではなく、両者は分かち難く絡み合っているのだが。前者を「解説と分析」と呼ぶなら、後者は「応用と展開」ということになるだろう。たとえばフランスの哲学者ジル・ドゥルーズであれば、その著作をつぶさに読み込み、別の言葉に丁寧に置き換えてゆくのが前者であり、そこから思い切って離脱し跳躍し、しかしドゥルーズを越えようとするのではなく、いわばドゥルーズと共に新たな思考を始めることによって、ドゥルーズの哲学から何が考えられるのか、いや、もっと踏み込んで言えば、実際にはそうしていなくても、ドゥルーズならば更に何が考えられた筈なのか、を問うことが、後者の試みの核心だと言える。
刊行前から各所で話題となっていた気鋭の哲学者・批評家による初の単著は、明らかに後者に属する書物である。ジル・ドゥルーズという可能性を徹底的に押し開くこと。そこで鍵となるのは、書名にもなっている「動きすぎてはいけない」という文言である。今は亡きドゥルーズが、単独で、そして盟友フェリックス・ガタリと共に著した、輝くばかりの書物群に記された思考を簡略に述べることは出来ないが、日本への紹介にかんする限り、それは1980年代前半に浅田彰や中沢新一が主導した「ニューアカ(デミズム)」と密接にかかわっていた。バブル景気へと邁進する時代であり、資本主義と情報化が凄まじい勢いで加速していた当時の日本で、「ニューアカ」が魅力的に導入したドゥルーズ(とガタリ)の哲学は、ひたすら動くこと、どんどん変化することへの奨励として機能した。それがドゥルーズ解釈として正しいのかどうかは必ずしも問題ではなかった。ただ、そのように受け取られたのだった。
しかし、それから30年の月日が過ぎ去り、ドゥルーズもガタリも亡くなり、日本も世界も、その姿を大きく変えた。そこで本書の著者は言うのだ。もちろん動くのはいい。だが、動きすぎてもいけない。そして繋がり過ぎてもいけない。グローバリゼーションとインターネットに覆い尽くされた社会で、いま新たにドゥルーズを読むこと。その思想を現在形に変換すること。こうして、かつて浅田彰の『構造と力』がそうであったように、本書は鋭利なドゥルーズ論であると同時に、私たちが生きる「いま、ここ」を明視するものになっている。そこでは「中途半端」であることが力強く肯定される。それは過剰と限界の一歩手前にあえて留まることだ。スリリング、かつジョイフルな哲学書である。