ハンナ・アーレント

 座談会の出席者たちは、いわゆる「在特会」の「朝鮮人は死ね」といったヘイトスピーチの主張に、かつてハンナ・アーレントユダヤ人虐殺の中心人物であったアイヒマンについて語った「凡庸な悪」を見いだす。そして、深みのない「凡庸な悪」であるからこそ、底無しに広がってゆく可能性があると指摘している。彼らは特殊なのではない。わたしたち社会の中に、彼らの考えに同調する素地があるのだ、と。
 だが、その「凡庸な悪」に染まり、世界を滅ぼそうとしているのは、「在特会」とそれを支持している人たちだけなのだろうか。
 アーレントは、アイヒマン裁判を傍聴し、彼の罪は「考えない」ことにあると結論づけた。彼は虐殺を知りながら、それが自分の仕事であるからと、それ以上のことを考えようとはしなかった。そこでは、「考えない」ことこそが罪なのである。
 わたしたちは、原子力発電の意味について、あるいは、高齢化や人口減少について考えていただろうか。そこになにか問題があることに薄々気づきながら、日々の暮らしに目を奪われ、それがどんな未来に繋(つな)がるのかを「考えない」でいたのではないだろうか。だとするなら、わたしたちもまた「凡庸な悪」の担い手のひとりなのかもしれないのだ。

(論壇時評)暗い未来 「考えないこと」こそ罪 作家・高橋源一郎:朝日新聞デジタル

『ハンナ・アーレント』を見る前に 岡野八代 | WAN:Women's Action Network

先程の論壇時評で『なんとなく、クリスタル』についても、興味深いからひいておく。

 33年前、モデルの女子大生を主人公にして、田中康夫が書いたデビュー小説『なんとなく、クリスタル』は、本文とは別に442個の注をつけて、世間を騒然とさせた。だが、その評価は、流行のファッションや音楽にばかり目を向けた、軽薄な若者向けの作品、というものが大半だったと思う。わたしは、小説に潜む鋭い批評性に深い感銘を受け、そのことを書いた。もしかしたら、自分を「炯眼」と思いこんでいたのかもしれない。だが、実のところ、なにもわかってはいなかったのだ。
 後年、作者は、自分がいちばん読んでもらいたかったところに誰も気づいてはくれなかったと述懐している。
 その部分とは、小説の最後、本文が終わった後にある「出生力動向に関する特別委員会報告」と「五十五年版厚生白書」だ。そこでは、「将来人口の漸減化」と「高齢化した社会」の到来が不気味に予言されている。はかなくも美しい、都会の物語は、はるか未来の「暗闇」を前にして、より一層、輝きを増していたように、いまは思う。
 では、なぜ、当時は誰もそのことを指摘しなかったのか。
 そこで予言されていた「暗い未来」は、とりあえずは、自分たちとは関係のないものに思えたからだろう。「楽しい現在」に酔いしれていたのは、登場人物ではなく、それを批判した「世間」の方だったのかもしれない。