第86回アカデミー賞、20世紀ダンス史、拡張するファッション展

斎藤陽道展「宝箱」(ワタリウム美術館)
齋藤陽道の個展は昨年ワタリウム美術館の裏でやっていた「せかいさがし」(青山ゼロセンター)に行っていた。空き家のような独特な空間に彼の作品が置かれているさまが楽しくて、今回の個展にも足を運びたいと思っていた。この個展ではよく知った写真は二階にある。それがきっかけで来たこともあって好きな作品だ。佐村河内守事件があり作者の物語に引きつけないことが美徳とされるかもしれない昨今このように言うのは憚られるが、それでもなお、写真家・齋藤陽道にしか撮れない写真であるのではなかろうかと見ていて思った。耳が聞こえない状態でどのように世界を受け止めているのか興味が湧かずにはいられない作品群。二階から上の階の作品は興味をもつことができない普通の作品が占めていたようにおもう。気になったのは最上部にある詩で、ポエムはこちらも昨今話題にのぼることが多いが、斎藤の詩に関してはいいと思った。作品に添えられる詩にリアリティがあればよく、詩的に夢想しているようなものは忌避することが多いとだんだんわかってきた。

拡張するファッション展(水戸芸術館)
林央子の『拡張するファッション』を好んで読んでいたから行きたいと思っていた。水戸までこのたまに行ってのだが、まず建物が興味深かった。建物自体よりも庭の部分が大きいのだ。これは建築における日本の不毛な広場のひとつの実践なんだとおもう。見た目として好ましいし、うまく使われればよいのだと思うが、ヒモが張られており中には入れないようになっていた。赤ん坊と母親がそのちかくで遊んでいたのだけれど、ヒモから中に入らないように気をつけていて、なんのための芝生なのかと思った。修繕にかかる費用は大変なのだとうはおもう。けれど、使えない芝生にどれだけの価値があるというのだろう。そうこうするうちに建物に入る。ここは芸術館なのであって、美術部門と音楽部門が混在しており、アートのスペースはわりと小さい。これは予想外だった。四隅のひとつに押し付けられたような具合。大きく二通路がすべてアートのスペースに割り当てられており、最初の部屋にはまずホンマタカシの写真が並んでいる。そうしてzineが広く置かれている通路へ。パープルは見たことがあったがほかは無かったので見れて嬉しかった。ここには実験映像も置かれていたが長居できなかったためすべてを見れなかった。通路を曲がると、オブジェが置かれている部屋に。ファッションにまわりを彩るアートや写真が置かれている。ここはいまいち楽しめなかった。もの派のような自律性はなく、インスピレーションを少し与えてくれたというだけの力の弱い展示に見えた。やっとでてきたファッションのスペースでは知らなかったコズミックワンダーとブレスの展示に惹かれた。コズミックワンダーは庭を使ってお祭り的にファッションを提示したムービーを流しており、ブレスはうまいこと見せ方を考えられたインスタレーションをしていた。ブレスの部屋の中間には服とアクセサリーで作ったカーテンがあって次に進むためには触れて通らなければならない。このような接触性は、オペラシティの展示でも感じたことの延長として基礎的な意味としてユニークだ。初歩的かもしれないが大事だとおもう。ケイスケカンダと浅田政志の教室を模した展示は想像できたものと変わらなかった。常設のないこれだけの展示であの入場料は高すぎる。しかし、ラストのファッションの図書室の試みはたしかにグッときて涙がでた。

内藤廣「アタマの現場」(ギャラリー・間)
建築展の見方がわからないということに尽きる。じっくり見ていた鑑賞者はその殆どが建築学生とアトリエ勤務なのだろう。唯一わかるのは壁際の「アタマのなか」つまり本棚だ。松岡正剛や吉阪隆正全集などあり、さもありなんという感じがした。そこには当然のように磯崎新原広司の初期の著名な本もあってよくわかったのだが。建築家に過度な情報網を必要とするとは思わない。本職がしっかり実践されていればそれでいいとは思うのだけど。「はは〜こういうのまで読んじゃうのか」というようなすごいものが並んでいてもそれはそれですごく面白いのではないか、というようにも思う。(解説動画はここ

ヴォルガング・ティルマンス「Affinity」(ワコウ・ワークス・オブ・アート)
さすがによかった。展示されている写真が多いのがまずよい。そしてさまざまに対象があるのもよい。車を映したものが核なのだろうが、ほかの作品に魅力的なものもあった。インタビューはここにあるが、また機会があれば足を運んでみたい。傑出した対象がなくとも作品として切り取りたい意志が存在するのはやはりおもしろい。ちかくでやっていた二川幸夫フランク・ロイド・ライトの写真展も見れてよかった。

Chim↑Pomエレクトリカルパレードで満足したことは一度もない」(hiromiyoshii roppongi)
メンバーのひとりであるエリイの結婚パーティーの模様を篠山紀信レスリー・キーが撮った作品を中心にまとまりをもたせた構成。311以後には震災以後の展示ばかりをやっていてさすがに飽きていたところでこうしてナイスタイミングにナイスな展示をできるところが彼らのすごさだろう。エリイが蜂蜜のように密閉された写真作品や、311以後にも実践していた壁に穴を空け反転させる作品の関連作が置かれていたりして、過去を大事にして未来を創造していくその手腕は衰えていなかった。(椹木野衣の批評


ウクライナはどうなっているか
ウクライナから離脱するのか?/緊迫するクリミア

消息不明のウクライナ前大統領のヤヌコビッチ氏がロシアで会見

露ガスプロム、ウクライナ向け天然ガス供給停止示唆
ロシアの政府系天然ガス大手ガスプロム<GAZP.MM>は7日、料金の支払いが滞っていることを理由に、ウクライナ向け天然ガスの供給を停止する可能性があることを示唆した。
ウクライナ経由の欧州へのガス供給は安定的になるとし、ガス供給停止の意向はないと表明していた。
ロシアは昨年12月、対ウクライナ金融支援の一環として、同国向けのガス価格引き下げで合意した。ただ、料金の未払いを理由に、プーチン大統領ガスプロムはこれまでに、4月以降は割引を打ち切る方針を示している。

ウクライナ問題、「苦しいのは実はプーチン」ではないか? | 冷泉彰彦

【ウクライナ情勢】ロシア国際放送局のアメリカ人女性キャスター、番組で抗議の辞任表明

ウクライナ情勢:「革命」までのプロセス、その温度 | SYNODOS




第86回アカデミー賞が決まった。
<作品賞>
それでも夜は明けるアメリカン・ハッスルキャプテン・フィリップスダラス・バイヤーズクラブゼロ・グラビティ、her 世界でひとつの彼女、ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅あなたを抱きしめる日までウルフ・オブ・ウォールストリート

<監督賞>
アルフォンソ・キュアロンゼロ・グラビティスティーヴ・マックイーンそれでも夜は明ける)、アレクサンダー・ペインネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅)、デヴィッド・O・ラッセル(アメリカン・ハッスル)、 マーティン・スコセッシウルフ・オブ・ウォールストリート

<主演男優賞>
マシュー・マコノヒーダラス・バイヤーズクラブクリスチャン・ベールアメリカン・ハッスル)、ブルース・ダーンネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅)、レオナルド・ディカプリオウルフ・オブ・ウォールストリート)、キウェテル・イジョフォーそれでも夜は明ける

<主演女優賞>
ケイト・ブランシェットブルージャスミンエイミー・アダムスアメリカン・ハッスル)、サンドラ・ブロックゼロ・グラビティ)、ジュディ・デンチあなたを抱きしめる日まで)、メリル・ストリープ(8月の家族たち)

助演男優賞
ジャレッド・レトダラス・バイヤーズクラブバーカッド・アブディキャプテン・フィリップス)、ブラッドリー・クーパーアメリカン・ハッスル)、マイケル・ファスベンダーそれでも夜は明ける)、ジョナ・ヒルウルフ・オブ・ウォールストリート

助演女優賞
ルピタ・ニョンゴそれでも夜は明けるサリー・ホーキンスブルージャスミン)、ジェニファー・ローレンスアメリカン・ハッスル)、ジュリア・ロバーツ(8月の家族たち)、ジューン・スキッブネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅

アカデミー賞―オスカーをめぐるエピソード (中公文庫)

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シャーリー・マクレーン
The Oscar Best Picture Nominees As Pie Charts -- Vulture

PC遠隔操作事件とはなにか。
【PC遠隔操作事件】保釈決定は出たが…(江川 紹子)

絵で見る近代建築とデザインの歩み

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ユニヴァーサル野球協会 (白水Uブックス)

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自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

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自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門(森村進): 極東ブログ

20世紀ダンス史

20世紀ダンス史

バレエ・ダンス100年史の決定版!
▼バレエ・リュス、表現主義舞踊、ロシアのバレエ、新古典主義ポストモダン、タンツテアター、ミュージカル・映画のダンス。
ヨーロッパとアメリカのダンス・シーンを完全網羅する前代未聞の大著。

▼20世紀のダンスは、ロイ・フラー、イザドラ・ダンカン、ニジンスキーといった初期の改革者とともに幕を開けた。このとき、ダンスは未曽有の変化の時代に突入したのだった。
▼この20世紀ダンスの壮大な歴史物語のなかで、著者はダンスを文化的・歴史的文脈のなかに位置づける。ミハイル・フォーキン、レオニード・マシーン、マリー・ヴィグマン、マーサ・グレアム、ジョージ・バランシンフレデリック・アシュトン、アントニー・チューダー、マース・カニンガムピナ・バウシュウィリアム・フォーサイス――。ここで語られる人々は、世紀をとおして芸術の実験の第一線にいた振付家のみならず、ダンサー、美術家、興行主、作曲家、批評家にまで及ぶ。さらに、本書は、相反する衝動をもつクラシック・バレエモダン・ダンスの関係性にも注目し、両者がどのように20世紀中ごろに合流し、結果として今日の多様なスタイルと形式をもたらしたのかを明らかにする。







モンテカルロ・バレエ「ダフニスとクロエ」「シェエラザード
ロイ・フラー


Ruin Lust | Tate


日本の電子音楽

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矢代幸雄のボッティチェリ研究における部分図の使用について

「受験料制度に対する、厚労省から中止を求める行政指導」報道について

越境する海洋民――東南アジアの海域世界から国家と国境を問い直す | SYNODOS

ビットコイン価格が暴騰中! - Market Hack

韓国の巨大インターネット企業:ネイバーの野望:JBpress(日本ビジネスプレス)

AKB48、30歳以上の新メンバー募集 センター起用・劇場公演・握手会も参加

世界で建設中の原子炉、1989年以来最多に=IAEA

「才能と選択の違いを知ること」 Amazon創業者ジェフ・ベゾスが卒業式で語った、道の切り開き方

エネルギーと社会(’11)

電子書籍にも「出版権」の設定を可能に、著作権法改正案を今国会に提出へ -INTERNET Watch

転載自由「おーぷん2ちゃんねる」投稿数が急増 1日のレスが1万件超える - ITmedia ニュース

女性型アンドロイド表紙で物議の人工知能学会、意表をついた最新号が話題

NONFIX : イマドキ女子のこじらせ恋愛?

①『転校生』(大林宣彦★★★★☆☆
あまちゃん』では春子の夫を演じた尾美としのり斎藤一夫を演じ、『3年B組金八先生』でデビューした小林聡美斎藤一美を演じている。大林宣彦の映画としては六作目。一夫のいる教室に転校生・一美がやってくる。一美はもともと尾道出身であり、幼いころに一夫と交友があった。一夫が自分の祖母を殺してしまったと思っている一美は一夫を連れ出し神社の階段までやってきた。すると誤って二人は落下し、からだが入れ替わってしまう。一夫は一美として一美は一夫として生きることになる。なんとか性差を超えて生活しだした二人。数学が得意な一美になりきらなければいけない一夫。一夫の父親の昇進で横浜に転勤になり猶予がなくなった二人。一美の好きな人に二人で会ったりと一悶着ありながら、神社の境内で再び落下して無事自分の体に戻ることができた。お互い相手のことが忘れられない存在になってしまい、一夫が引っ越すトラックに乗ったところで確認しあう。それがラストシーンの「さよならあたし、さよなら俺」であり、素晴らしかった。大林宣彦は『あの空の花』をすでに観ており、ハチャメチャな映画だったがそれはもともとそうだったのだと確かめることができた。この映画はストーリーは骨子以外はないに等しくあとは入れ替わったからだの違和感を強調するストーリーがつづく。そのストーリーにおいては、お互いが過剰に性差を超えた肉体の触りあいによって強調されるのだが、一夫がからだが戻ったあとに立ちションベンをするのがよかった。こういう逸脱をうまく拾ってきて盛り込めるのは才覚だとおもう。小林聡美がおっぱいを露わにするシーンが何度もあった。尾美としのりの女性の演技はかなりさまになっていた。

②『共喰い』(青山真治★★★★★★
本当におもしろく心ゆくまで楽しんだ。始まりから終わりまで一切の無駄がなくもたつかず過不足なく描写されるが、だからといって情念に欠けることもなく、むしろ情念の映画だった。情念の映画は情念の先走りに身を任せ勢いで突っ走るしかないことが多い。だが今作における自律性は情念を飼いならし音と動画のセンスの映画に仕上げていた。このようなバランスを保った情念の映画がいまの日本で公開されると誰が思ったことだろうか。昭和において主人公の父親は暴力を伴ったセックスで好き放題していた。制御できないおのれの欲望を持て余し妻では当然満足せず取っ替え引っ替え女に痣を刻み込み、ついには息子の女にも手をかけた。息子は怒りに身を震わせるも、女であり、見放された妻である母親が手をくだし、父親は殺される。白眉であったのは、見えざる敵であるということだ。父の剥き出しの欲望は抑えて描かれており、直接彼に怒るのが難しい。母はそんな父の小間使いにされ廃人のように空虚だが、同様に敵としての適正に欠けている。当人が怒れるのはおのれの性欲が発動する瞬間の暴力性だけであり、それは永続するものではない。エクスタシーの瞬間につかのま覗くものであり、四六時中想定できるものでは決してない。自分の女が弄ばれて見えざる敵と戦わなければならないのだが、同時にそれはおのれのアイデンティティの正当性でもある。性欲によって生まれいでた生命が、性欲の瞬間の暴力性に自覚的でなければならないというパラドクス。本当の敵である父は死んだはずだったが、いつまでも見えざる敵である暴力性は顔を出す。これは父の息子である証であり、消えることのない正統性だ。ついに女に手をかけた瞬間、父の遺伝子に慄き嫌悪すると同時に、自分の基盤を見出した気がしただろう。こうして昭和の男のミームは平成へと受け継がれた。スタイリッシュな表現に情念を対応させて描き出す二代に渡る戦いは、いまだ終わりをみない。そんな敵に自覚的であればこそ、鑑賞者にとっても忘れられない映画になるだろう。

③『舟を編む』(石井裕也★☆☆☆☆☆
昨日日本アカデミー賞で作品賞と監督賞を受賞した作品。果たしてどんな映画だろうということで観てみた。大学院出の扱い方、真面目ということの再肯定の仕方、読書をする人間はコミュニケーション能力に欠けているというポイントは、必ずいったんステレオタイプにしないとそこからの復帰はあり得ないんだろうか。おかしさがおかしさのまま肯定され、時に地殻変動(革命)に寄与もしくは発端とならないのだろうか。小林薫の役柄は「まずはじめに言葉を好きになることだ」というが、松田龍平言語学修士を収めているのだから好きに決まっているんじゃないだろうか。基盤としてはビリー・ワイルダー三谷幸喜みたいにそれぞれのキャラ立ちによって物語を推進するタイプに思えたが、違和感がある部分もあるし、「マジ」「ガチ」「ら抜き言葉」など、世間との齟齬とそれへの視線の描き方も、もうちょっと凝ってもいいのではないかと思った(ただ「憮然」への持っていきかたとしてうまかったのだが)。「大渡海は今に生きる辞書を目指すのです」。改訂しかお面白みの残されていないことへの諦念などあってもよかったのでは。世間ずれした人間の所業をいったん世間に振り戻さず、差異のなかで見せる表現ではなくブツそのものでみせること。宮崎あおいが「観覧車って誰が作ったんだろう」と言い松田龍平が辞書を取り出そうとする場面がある。「そんなことする必要ないよ」と言われ辞書を引っ込めるんだが、これが恋をしてまともな人間になっていく楽しい話なんだろうか。このあと「女が板前になるなんて変なことなのかな」と持ちかけられるんだけど、板前になりたい女もいるし、辞書を偏愛して仕方のないやつもいる。それが揺り動かされず1人だけでも自律してしまえるということはないんだろうか。オダギリジョーの「キャバクラいってきた〜」に池脇千鶴が「ぇぇえー!?」というシーンは良かった。池脇千鶴のメイクはケバくてどこにでもいそうで服装も貫かれいてキマっていた。この松田龍平的なものがウケすぎるのもいやなので、ちがう路線を普及させたいとおもった。最後まで観終わってみると、起伏のあり方が一般的な邦画だった。宮崎あおいが出てきてからは極端につまらなくて、松田龍平演じるキャラクターにそもそも興味を持てないし、オダギリジョーがおねえっぽくなったりごちゃごちゃする必然性もうまくすくい取れていなかった気がした。総じて普通で、普通のものは欲していなかった。(ストーリーを書いておく。松田龍平は出版社の窓際族だったが、あるときに辞書編集部に定年を迎える社員が出て後任を探さなければいけなくなった。辞書編集をしたいなどという変わり者は見つからないだろうと思ったところに松田がおり白羽の矢を立てられる。コミュニケーションが苦手でオダギリジョーにバカにされながらもじょじょに自信と辞書への偏愛を見せ始め、いっぱしの編集委員に成長。いきなり住んでいた家に宮崎あおい(大家の娘)があらわれ好きになったりする。辞書の語義決定で編集部において編集委員のそれぞれの実生活に照らし合わしながら盛り込む語義に遊びをつけたりしてキャッキャする。そのうち小林薫は退社。辞書は15年後についに完成した時には編集責任者の大学教授は逝去したあとだった。だがついに松田龍平はやってのけたのだ。辞書完成の感動も束の間、宮崎あおいが現実っぽく引き戻し恋愛にうつつ抜かしておしまいおしまい)

④『ブレードランナー』(リドリー・スコット★★★☆☆☆
ハリソン・フォード演じる主人公デッカードが言う。「キス・・・してって・・言・・・え」なんすかこの焦らしは。「抱きしめてって・・・・言・・・・・え」。このレプリカントへの言葉で少し盛り上がり、レプリカントの男が奴隷の屈辱を感じさせた場面にはグッと来たが、それ以外はよくわかんなかった。ストーリーをまともに追えていなかったと思う。逆に追えていたとしたら、あまりにも話が単純すぎた。デッカードは元ブレードランナーだったわけだが、地球に感情を持ったレプリカントが来てしまった。だからブレードランナーに復帰してもらえるよう頼まれ、職務に勤しむ。ブレードランナーの職としてはレプリカントらしき人に簡単な言葉のテストをしていき、レプリカントなのか人間なのか見抜くことだった。レプリカントは基本的に言葉のキャッチボールが出来ない(相手の感情を理解できない)から、見ぬくことができるということなのだ。お得意さんの依頼である女性がレプリカントだと分かるのだが、好きになってしまい追跡はしない。これが冒頭に書いた、迫る場面なのだ。このようにロボットと人間のラブロマンスが中心なわけではなく、悪どいレプリカントもでてくる。それが、「奴隷の屈辱を感じさせた場面」というやつだ。さんざんアクションシーンによってデッカードレプリカントのロイの戦いが描かれる。そうしてついに屋上からデッカードが落とされ殺されるかに見える段になって、ロイは殺すのをやめるのだ。実はロイは地球に来てから自分を制作した博士に寿命を延ばすことを依頼していた。だが叶わなかった。レプリカントはただの奴隷なのだ。寿命の延長という人間が誰しも望むことはレプリカントには許されない。奴隷としてただ生きることだけが望まれ、死んでも誰も悲しまない。ロイがただデッカードを落とし殺していればふつうのアクション映画だった。だが、ロイが救い、いつも加虐される側のレプリカントの気持ちを鑑賞者に叩きつけることで、映画はちがったものに思えた。ただ、ここが山場ではきっとなくて、ラストの場面など、「え、あの人が実はレプリカント何じゃ!?」みたいな、謎解きの楽しさもあったはずなのだ。でもそういうのは一切わかんなかった。映像は公開当時としてはきっと画期的だったのかもしれないが、いまは当たり前のものだ。でも、未来的な映像に漂う独特の退廃した感じ(だいたいの人間は宇宙に引っ越しているわけで、地球の希少性は薄まっているから当然なのだけど)は独特だとは言えそうだ。

⑤『卒業』(マイク・ニコルズ★★★★★★
エレンが母親譲りのあたまのおかしさなのが最高だった。それはだんだん明らかになっていたのだが、決定的なのは結婚式の場面。普通隣に新郎がいるのに他の男と駆け落ちするだろうか。大笑いしてしまった。それを支えるのが母親で、主人公が教会に到着しガラス窓から叫び声を上げるとそれを見てニヤリ。このニヤリがたまらなくよい。高校を卒業したばかりの青年をたらしこみ、大人の世界へ誘った淑女は、こういう青年っぽい行動に興奮したのだろう。体裁など当然かまっておれず、ニヤリとしてしまう。この親にこの子有りなわけだ。きっと主人公は相当賢かったのだろうが、まずは母親に狂わされ(毎晩人妻の家に通っていたわけだからおかしくなるに決まっている)、次は娘に狂わされた。二人はお互いと主人公(ダスティン・ホフマン)が関係があるのを知っているのに、縁は続いてしまう。ほんとうに恋愛とは不思議なものである。よかった。

⑥『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー★★☆☆☆☆
うーん。ラスト数十分にわたるドンパチはたしかに鮮烈だったけれども。ストーリー自体は平々凡々としており個性は立っていなかったように感じた。ある強盗団が政府軍と反政府ゲリラのはざまでドタバタする話なんだけど、ボス以外キャラは立っていないし、ストーリーもなんかよくわからない。最初強盗に失敗してメンバー一人の村に帰ると娘が連行されたと知る。それが反政府ゲリラで、そこにドンのアパッチが娘を侍らしている。兄としては許せなくっていてもたってもいられず妹を射殺。ここで気に入られて反政府ゲリラにもてなされ、仕事をもらう。これが列車からの強奪で、無事奪いアパッチに届けるんだが、なんかヘマをしてしまい嫌われる。メンバーのひとりはなぶり殺されかける。これにキレた強盗団のボスが発砲、こっから映画史に残るとされる銃弾戦になる。多勢に無勢。それはわかるんだけど。ストーリーをちゃんと追いたかったり、そのストーリーに面白さを求める人にはうすい映画だな、ということになってしまうかもしれませんな。『戦争のはらわた』はもっと楽しめた。サム・ペキンパーは会話劇で話を展開させる監督だと思うのだけど、うまくいっていなかった。

⑦『脳内ニューヨーク』(チャーリー・カウフマン★☆☆☆☆☆
エターナル・サンシャイン』が苦手なのにシーモア追悼でみたが、最後は早送りした。こういうこじれてその私を受け止めてくれ!みたいな映画は正直耐えられない。これがアバンギャルドなのであれば、そういうのは願い下げだぜ。

⑧『カポーティ』(ベネット・ミラー★★★★☆☆
監督は『マネーボール』のベネット・ミラーフィリップ・シーモア・ホフマン主演作。彼は本作でアカデミー賞主演男優賞を受賞した。『ファントム・オブ・パラダイス』のポール・ウィリアムズみたいなトルーマン・カポーティ。ホフマンの演技がよい。いい意味で気持ちが悪いから。作家のカポーティはもてはやされるパーティー・ピープルとして生きていた。社交に命をかけていたわけだが、ある死刑囚と出会い惚れ込んでしまう。おそらくカポーティはゲイで本当に好きになってしまったんだろう。そこから作品にするという口実でこの死刑囚に会いにいく。ついには弁護士の費用まで払ってやる。この死刑囚は3年前に殺人をした容疑がかかっており、カポーティが無実の証拠として小説に記すことを望んでいた。口ではカポーティは死刑囚の刑を減刑するための作品であると言っていたが実は死刑囚が実際の犯人であると断定するものだった。死刑囚の死刑は伸びに伸びてその都度再取材を加えていくカポーティ。いつまでたっても作品が完成しない。編集部もしびれを切らすし、当のカポーティ自身が精神を病みはじめる。あんなに好きだった死刑囚に会うのも億劫になったのだ。こうして死刑囚が殺される直前になって電報を受けたカポーティは会いに行くことに。ここで、本人の口から自分が手を下したと教えてもらう。カポーティの作品はついに完成した。カポーティはへんな人間であり、栄光を浴びている時にしか満足できない虚栄心の塊だった。死刑囚もそんな作品のたかが材料にすぎなかったわけだが、ラスト飛行機に乗り死刑囚からの手紙を受け取る。そこにはカポーティを描いた絵が挟まれていた。カポーティの心はすこしほぐれたのかもしれない。作品が完成した安堵と、だれかと通じ合えたという満足感、共にあったことだろう。

冷血 (新潮文庫)

冷血 (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

⑨『スティング』(ジョージ・ロイ・ヒル★★★★★★
あっぱれな面白さ。最後の最後まで面白さが持続する。まずはポール・ニューマンロバート・レッドフォードの顔がいい。この時点で★は5だ。こんなに顔のいい二人がビシッとスーツを決めてお互い師弟愛がある。もうそれだけでこちらは満足だ。ロバート・レッドフォード演じるフッカーは、


⑨『アメリ』(ジャン=ピエール・ジュネ

⑩『めぐりあう時間たち』(スティーブン・ダルドリー)
ヤング≒アダルト』と『レボリューショナリー・ロード』は観ていたので、映画系女子がゆく!(第9回 文化系女子、独身か、結婚か、――出産か)のもう一作を観た。