映画鑑賞2

①『ビッグ・フィッシュ』(ティム・バートン、2003年)★★★★★★
すばらしかった。目元がびしょびしょになった。くだらない法螺話ばかり話す父親(アルバート・フィニー)がいて、息子(ビリー・クラダップ)はずっと腹立っていた。嘘に嘘を重ねるばかりではいつだって真実がわからないからだ。話しによれば、父はビッグ・フィッシュを釣っていたからウィルが産まれた時病院に立ち会えなかったという。でもどうせ出鱈目だ。もう懲り懲りだった。そのうちにウィルは結婚相手を連れて実家に帰る。両親に紹介するためだったのだが、父エドワードはすでに寿命がわずかとなっていた。いい加減「あれは全部嘘だった。死期も近いからほんとのことを話そうと思う」とかなんとか言えばいいのにいまだよくわかんない話をしている。街にやってきて羊を全部食ってしまう巨人をうまいてで追っ払ったとか、夢のように素敵なスペクターの村に一晩泊めてもらっただとか(スティーヴ・ブシェミはキュートだ)、一目惚れした女性の情報を得るためにサーカス団で三年働いたこととか。その女性には婚約者がいたのに略奪して、だけどそこから三年の兵役がのしかかってきて、けれどうまいこと早めに帰ってきたとか(中国の女性双子歌手を口説いてとてつもないルートを使い帰国した)。セールスマンとして活躍し、不況で荒廃した夢のような素敵な街を復活させたとか。エビデンスのない話をいつまでも続ける彼。婚約者もそんな父親の話に聞き入っている。ウィルはうんざりだった。
母親の願いから書庫の片付けを任されたウィルは父の思い出と一致する証拠品を前に、バカにしているだけではいられないと思うようになる。さっそく目ぼしいお宅を訪ねてみた。父の不倫相手だと仮定して。でもそれは間違っていた。この女性はウィルが夢のように素敵な街で最初に出会った少女であり、荒廃を復活させようとして街を買収したときに唯一居残っていた、そして、買収を拒んだ女性だったのだ。父の法螺話がすべて法螺ではなかったと知った瞬間だった。また、買収を拒んだのにもかかわらず家の改修を一手に引き受け家を蘇らせたこと、女性から愛情を示したが大事な妻がいるからと断られたことを知った(この女性が父と息子(魔女)の「作り話」を結ぶ触媒となっているのも惹かれた)。死ぬ寸前の父親の病室にはウィルの出産に立ち会った医師がおり真実を聞かされたが、それは他愛のないものだった。医師はいう。「父の話と私のこの他愛のないエピソードどちらを選ぶ?」と。ウィルはついに父親に尋ねた。あなたはどう死ぬ? 父エドワードは言う。お前が考えてくれと。 ウィルは訊く。どこから始めればいい? 父は言う。この病室からはじめてくれと。ウィルは想像した。病室から車椅子で果敢に抜けだし車に乗ってあのビッグ・フィッシュを釣り上げた池にゆく父を。その父を囲む大勢の「夢の様な人々」を。父は死に、ウィルは見舞った。子供ができて、エドワードのようにウィルも夢の様な人生を否定はしなくなった。この映画はティム・バートンの実人生の映画とも言える。ティム・バートンといえば『シザー・ハンズ』以外は珍品とも言えるくだらない映画のオンパレードだと思ってきた。デコラティブな仕掛けのみの駄作であると言わんばかりに(現に『ダーク・シャドウ』は映画感で観てひどく後悔したものだ)。ただ、なぜバートンがそんな大仕掛にこだわるのかは考えたことがなかった。どうしたって僕らは現実を直視して生きる。真実こそが正しいと思いがちだ。エヴィデンスをだせとすぐに言う。エヴィデンスのないことはバカにする。エヴィデンスのないことを言っている人間はあからさまに侮蔑する。現実に生きること、そしてそこに夢のような世界を投影して楽しく満足に生きること。監督自身が世間の声をものともせずやってきたことがこの映画のなかにすべてある。この映画を観たことでくだらないけれど夢の様なことを全力で肯定したくなり、バートンが愛すべき人だとわかり、自分の人生を最高に楽しいものにしたいと思えた。

②『ブリジット・ジョーンズの日記』(シャロンマグワイア、2001年)★★☆☆☆☆
レネー・ゼルウィガーの主演作であり彼女は本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。それはめでたい。ウィキペディアによればレネーを主演に据えることに原作のファンから批判があったらしく、けれど彼女は主演としてやりきったのだから。ではこの映画の魅力とはなんだろうか。ラストは清々しくよかった。ずぼらでデカイパンツしか男性に見せてこれなかったブリジット・ジョーンズがついに可愛いパンツを履いた。しかし掴んだ男は「ブリジット・ジョーンズの日記」を見てしまったことで居なくなってしまう。だが実はブチ切れていたとかそんなんではなくて新しい日記を買ってあげていたというところがにくい。しかも堅物の弁護士のはずなのに雪が舞う中ブリジットにキスをお見舞いする。素敵だ。それっぽい甘いメロディーも背後に流れていてキュンとくる。ではこのラストまでの道程はといえば、散々だったのである。まず、世界観が小さすぎやしねーかと。ブリジットのまわりのダニエル(ヒュー・グラント)とマーク(コリン・ファース)が彼女を取り合うのはよしとしよう。でも描き方ってもんがあるのではないかと私は思ったね。イギリスの話で最後にマークがアメリカに栄転か!?って話になっていったわけだけど、それは別に世界観を大きくしようとしたわけではもちろんなく、彼女の家と彼氏の家と職場が基軸として物語は進む。でもそんな狭い世界にはたいして興味がわくはずもない。狭い世界こそ広い世界に通じる、ってなわけでな本作はないからだ。彼女は最初に出版社で勤め、テレビ局に転ずる。ふたつの現場においては女性なら共感せずにはおれないほど「風変わり」で「個性的」で「ハッキリ」している。でもそんなお山の大将に感情移入してせいせいしたところで一体なにになるってんだろうか。そう思えてしまった。出版社のエロい上司といい感じにいきそうになるもダニエルは浮気をしていて、日記をつけ始めた翌年の誕生日に今度は弁護士のマーク(映画の冒頭のパーティーにもいた)といい感じになるもダニエルが乗り込んできて取っ組み合いになる。でもここでのダニエルとマークの喧嘩はどうでもよすぎる気がした。女をたらしこんで好き勝手している男が急にブリジッドのことが好きでもいいけど。マークはそれとは対照的に堅物で、でも喧嘩してしまうのでいいけれど。それはどこか遠い世界の関わらなくとも自分には関係ない、そんな受け取り方をしてしまった。テレビ局に入局したて(前の会社で上司とやったから退社させられたというと一発採用されたあたりよかった)の消防署のレポートでダメって言われてるのに棒の上から降りてきてしまうのには爆笑させられた。そういう画的な面白さがもっとあれば彼女のキュートさは普遍的に際立ったかもしれない。

③『ウィンターズ・ボーン』(デブラ・グラニク、2010年)★★★☆☆☆
映画としては2点。ジェニファー・ローレンスに1点加点で3点。ミズーリ州に母親と弟、妹と住むリー(ジェニファー・ローレンス)。母親が病んでいるために兄弟の世話は一手に引き受けてきた。貧乏で餌が買えず飼っていた牛を手放すほどだった。近所の人はそんな一家に食材を与えるなど協力してくれた面があった。あるとき保安官が家に訪ねてきて、父親が裁判に出廷しないと家を没収するという。当然貧しい一家にとっては致命的だから、リーはなんとか父親を探し出し出廷させようと目論む。だが父親は見つからない。父の兄(叔父)を訪ねるも邪険にされ、会いに行くなと言われた人物に会いに行っても証言はとれない。おどろおどろしい人間関係が渦巻き、安心して頼れる大人がいないなか、リーは父親を探し続ける。ある者は早い段階で小屋で焼け死んだというし、州境にいるという者もいた。だが真実は掴めない。そうこうしているうちに、リーは軍隊への入隊を希望する。お金を稼がないと生きていけないからだ。でも入隊は認められない。なにせリーは17歳なのだ。大人びており深刻そうな態度を見れば20代半ばにも見えるが少女なんである。ついには母親に導かれて池へ行く。父は死んでいた。のこぎりで両腕を切り落とし、保安官に持っていく。兄弟を見守りながら無事家の確保には間に合ったが、これからも辛い生活は続いていくのだろう。この映画にはまともなストーリーはない。リーがくそみたいな大人たちを訪ね歩き父の居場所を掴めないさまが見せられる。大人たちはリーにタバコや大麻を勧め、目の前で実際に吸ってしまう者もいる。おかしすぎる。そんな辛さに耐えるジェニファー・ローレンスが唯一観るに値するポイントとなっている。あとは雰囲気を楽しむしかない。ホラーっぽい要素もある冷たく禍々しい世界観をどこまで好きになれるかにかかっているだろう。私は雰囲気はストーリーのすばらしさとマッチして初めて輝くと信じているから、この退屈さには耐えられなかった。ただ、アメリカのヒルビリーの文化を如実に切り取っている手腕を鑑みると評価されるべき部分もあるように思った。

④『フタバから遠く離れて』(舩橋淳、2012年)★☆☆☆☆☆
どうしたって表現は相対的なものにならざるをえない。ましてやそれがフィクションではなくノンフィクションであるならば、すでにある表現のあいだに自分の表現があることに意識的にならなければ批評的なものの見方はできないだろう。世間を揺るがすほどの惨事があればマスメディアが映像を全世界に向けて配信するし、個人のメディアが発達した現在ならばなおのこと情報は簡単に行き渡る。一次情報の伝達のつぎにやってくるのが特集を組むかたちでのパッケージングで、さまざまなパッケージが溢れたことは先刻も承知だろう。そして遅れに遅れて表現するドキュメンタリーがやってくる。少なくともそんな立場におかれたドキュメンタリーは、一次情報でも、その次のパッケージングでもない、その次が求められてしかるべきだ。果たしてそれが本作にあったかといえば、かなり疑問だ。このドキュメンタリーはあえてなのかわからないが、非常に中途半端な立ち位置をとっている。一次情報を素材そのままに出している感じもするし、かといって編集という主観を排しているわけでもない。フレデリック・ワイズマンのようにナレーションや文字による説明をすべて排してはいない。文字による説明は次から次へとでてくる。そんな立ち位置が考えぬかれて出てきたかといえばそうではなく、咄嗟に掴んだ表現がそうだった、たまたま性によって支えられているようにおもう。監督の意図がどこにあるのかは分からないが、少なくとも自分は、表現の相対性や固有の意味性にこだわりのないドキュメンタリーは必要とはしていない。そこに存在する意味がしかと述べられる、述べる意欲に溢れているそういうものしか見たくない。権力者を映像で迎える手つきも、被災者にインタビューを向ける手つきも、いいものとは思えなかった。一時的な記録でもない、マスメディア的なパッケージングでもない取りこぼしたものをドキュメンタリーが拾おうとする時、それがどうあらねばならないか、やらせがあったラジオのドキュメンタリーや森達也らの『311』も含めて考えざるをえなかった。

⑤『アラバマ物語』(ロバート・マリガン、1962年)★★★★☆☆
ハーパー・リー(映画『カポーティ』にも出てきたトルーマン・カポーティの友達)の『To Kill a Mockingbird』を原作にした映画。グレゴリー・ペック演じるアティカスは弁護士をしており、レイプの嫌疑のかけられた黒人を弁護することになる。法廷ではレイプ被害者とされる少女メイエラとその父親ボブ・ユーエルによる有罪であるとの証言、かたや被告であるトム・ロビンソンは無実を訴えていた。少女は一度っきりのお願い(庭の棚を破壊する)の対価としてお金を払おうとして家に入ろうとしたところを襲われたという。トムは、一度きりでなく何度もお願いされたという。トムは農業をしていたが農地への道すがらに少女の家があって、週に何度もそういうことがあったというのだ。そのうちに棚の上のものを取ってほしいとお願いされ椅子に上ると後ろから抱きしめられた。椅子からおりるとハグされキスをせがまれたという。トムが断り帰ろうとすると少女はショックで泣き、レイプをしたのかと飛んできた父親によって訴えられたというのだ。だが証言はちぐはぐで、実際にはトムは左手が使えないのに首を締めたことにされたりと齟齬がいくつもあった。陪審員の審議の結果、しかしトムは有罪に。護送車から逃げ出したトムは射殺されてしまう。ボブは暗がりでアティカスの息子ジェムを殺そうとする。お遊戯会へ向かう途中だったスカウトはそれを目撃しており、ボブは亡くなる。ジェムを助けてくれたのは、隣人のブーことアーサー・ラドリーだった。これまでイノセントであることをよしとしてきた主人公たちは、ブーを護るためにという保安官ヘッく・テイトの提案で嘘をつき、ことを荒立てないことにする。
本作は、映画としての構造が複雑であり、ストーリーはいくつにも分割できる。まず最初は、子どもたちの冒険の話だ。ここで主人公一家の現状や、隣人ブーの恐ろしさが強調される。つぎはそのブーと子どもたちとの恐怖の話。そしてアティカスによる黒人弁護の話へとつながっていく。こうしてさまざまな要素があったわけだが、最終的にすべてがつながってくる構成なのだ。冒頭こそ楽しさ溢れていてよいものの、話の運び方は単調だから少し飽きてくる。物語は複雑なはずなのに、その単調さがあるというのが面白い。62年の段階で、黒人の権利を擁護する白人弁護士を描いたのは画期的だったのだろう。げんにアティカスはめっぽうかっこいい。ボブに唾を吐かれようと、しゃきっと凛々しいのだ。子どもたちの描かれ方もよかった。ビルドゥングス・ロマンとして成長の過程が見せられるのだが、例えば黒人弁護に反対する白人たちがアティカスに押し寄せた時にスカウトが無垢な質問で乗り越えたりするところとか、何も分からないような子供であるのに法廷で行われていることと何が正義であるのかというようなことが瞬時に察せられているところとか。

⑥『テルミン』(スティーヴン・M・マーティン、1993年)★★☆☆☆☆
世界初の電子楽器テルミンを発明したレオン・テルミン博士についてのドキュメンタリー。ごった煮のようにテルミンに関係することが詰め込まれており特に丁寧な説明もないから順繰りに知りたい人には向いてないだろう。かくいう私も詳しいわけではないから大いに面食らった。テルミンを開発した後に姿をくらまし(男たちに連れ去られ)ロシアの諜報部で働いていた事実は知らんなかったので驚いた。かつての女性と再会した老齢のテルミン氏が演奏を聴いたり街をふらついたりと、晩年のテルミン氏に焦点を当てていることもこの映画の特徴だろう。

⑦『チャーリーとチョコレート工場』(ティム・バートン、2005年)★★★★★☆
造形センスがずば抜けている。だいたいにおいて映画はストーリにしか興味が湧かないのだけど、それでも驚くほどに世界観の構築がすばらしかった。ディープ・ロイがウンパルンパを演じており、165人分の演技をしていたらしい。それだけインパクトがあり陰の主役と言って差し支えない。ジョニー・デップ演じるウィーリー・ウォンカはチョコレート工場の工場長。従業員によって極秘のレシピをばらされたことで人間不信に陥り、全員を解雇。それ以来人間が工場に立ち入ってはいなかった。そんななか、チョコレートに金のカードを封入、5人限定で工場に招くことに。4人は次々と金持ちがカードを引き当てる中、少年チャーリー・バケットフレディ・ハイモア)も3度目の正直(誕生日プレゼント、祖父のへそくり、拾った紙幣によって)でついにカードを得る。工場は夢の様な世界で子どもたちはついはしゃぎ脱落していく。チョコレートの池に溺れたり、ナッツの殻を割るリスを欲しがり穴に落とされたり、テレポーテーションの機械に入ってしまい板のような体になったり、試作品のチューイングガムを食べてブルーベリー人間になってしまったり。そして残ったチャーリー少年にウォンカは工場を譲りたいという。チャーリーは家族と離れ離れになるのなら工場は要らないというが、ウォンカはついに譲ることを決めた。それは、ウォンカの実家の歯科医院にチャーリーに導かれ行き、父との愛を確信したからだった。工場内には、ボロ屋の元家と同じ家が建てられていた。ストーリーは平板といえるかもしれないが、存分にフィクションに酔わせてくれる。冒頭で書いたように造形センスは遺憾なく発揮されており、全方向エレベーターなどもそのうちのひとつだ。工場からはじき出された子どもたちを宙に浮かぶエレベーターから見送る場面なんかもよい。決してエレベーターが本格的にリアリティーをもって存在しているわけでもないんだけど、世界観の構築が見事だから少しぐらいチープでもそれが良さに思えてくる不思議。人間不信のウォンカが他人に心を許していく過程は大幅に端折られているわけだけど、映画の最初で執拗にチャーリーの家族のあたたかさが描かれていたから成り行きは想定できる。また、『ビッグ・フィッシュ』を観た後では、このホラ吹きのような世界を全身で感受せずにはいられないだろう。

⑧『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴンソン (実写)、ハミルトン・S・ラスク (アニメ)、1964年)★★★★☆☆
無知だったのだが、『サウンド・オブ・ミュージック』のジュリー・アンドリュースが主演。64年に『メリー・ポピンズ』、翌年65年に『サウンド・オブ・ミュージック』が公開されたらしい。これってすごくないか? 見ていくと両作は似ている設定だとすぐに気がつく。ジュリーはどちらでも家政婦を演じていて、最初は馴染まない子どもたちを独特のスタイルで教育していく。父親はしつけにうるさい。ジュリーの天真爛漫な明るさに触れるうちに父親の心も変わっていく。こんな共通点がある。なぜ『サウンド・オブ・ミュージック』は製作・公開されることになったんだろう。『メリー・ポピンズ』の成功があったから?それとももともと製作は進められていたのだろうか。気になるところだ。『サウンド・オブ・ミュージック』は大好きな作品なのだけど、それと比べると本作には力強いストーリーはない。差異を強調するとすれば、まずアニメーションと実写を両立させていることが挙げられる。ディズニーが製作したこともあって、最も心躍る部分は実写とアニメが融合した中盤だ。メリー・ポピンズは煙突掃除夫と子どもたちを連れて絵の中の世界に飛び込む。飛んだり跳ねたり自由を謳歌するのだ。子どもたちはこの一連のなかで成長し、楽しさを体で覚えていく。そんなシーンは魅力に溢れている。また、空を飛ぶシーンが非常に多い。そもそもメリー・ポピンズは空からパラソルを持って現れたし(採用試験はメリー・ポピンズ以外は消えてしまったことであっという間に決まった)、登場人物はつぎつぎに飛ぶことになる。これは設定がどうなっているか定かではないのだが、魔法を使えるメリーだけということではなくて、関係なさそうな人も結構飛ぶ。これにはぶったまげた。自由なタイミングでアニメと融合させたり空を飛ばせたりと、気ままなのだ。まるでメリー・ポピンズの心のように。これは子供だったらさぞかし楽しいと思う。子供はいつも空想してしまう。それは脈絡なく突然だ。そんな子供の心のように、見せ場ありきの話が展開する。宮粼駿は脚本よりアニメ的な見せ場によって映画を構成するが、これもそのようなものだ。といったときに、ストーリーがくだらないかと言えばそうでもない。あまりにも飛んでばかりなはしゃぎっぷりにさすがに途中少し飽きるが、父の成長を書ききったのは見事だった。父はバンカーという名前の通り銀行で働いている堅物で、メリー・ポピンズの歌やはしゃぎかたに苛立っていた。途中解雇しそうになったほど。だが、終盤になって子供のせいで上司から叱られる(息子たちが紙幣を銀行に預けず大騒ぎしたため、銀行の信頼が揺らいでしまったのだ)のだが、そんなこと意に介さず歌い出すのだ。メリー・ポピンズが来たことで子どもたちは夢見る悦びを手に入れ、父親は子供に接する楽しさ、世の中を自由に生きていく気持ちよさを実感したのだろう。21世紀という娯楽作とアカデミー賞狙い作との乖離が起きる中、そのどちらも併せ持った作品がつくられていた20世紀中盤の黄金の時代の一作である。

⑨『helpless』(青山真治★☆☆☆☆☆
『共喰い』に感銘を受けまくり『東京公園』にも妙なざらつきを覚えていたこともあって(そういえば『AA』も観ている)長編二作目という初期の本作を鑑賞。冒頭こそ引き込まれ「音楽のセンスとかシンパシー感じるぅ〜」とルンルンだったが、どうにも引っかかりを持てぬままラストまでいってしまった。とくにピストルの音がおもちゃみたいだったところから『その男、凶暴につき』以後の映画なのによくこれで恥ずかしくなかったなとイヤな感想をもってしまった。単調で日本的な無力な感じでそういうのが苦手なので退屈でした。

⑩『わたしを離さないで』(マーク・ロマネク、2010年)★★☆☆☆☆
だんだん最後に近づくに連れて盛り上がるもカタルシスはない。原作はかつて読んだことがあるが(そして忘却したが)内容をうまいこと丸く収めてしまった感じ。『シェイム』『17歳の肖像』と見続けてきたキャリー・マリガン目当てで観た。キャリー・マリガンは主人公のキャシーを演じ、ルース(キーラ・ナイトレイ)とトミー(アンドリュー・ガーフィールドアメイジングスパイダーマン』の主演、『ソーシャルネットワーク』にも出演)と三角関係を築いている。ヘールシャムの教師陣や猶予の出願のために(キャシーとトミーが)出向いたお宅の女性二人のようにうまく転がせば際立つキャラクターがいるのにもったいない。ヘールシャムがどんなところでそれがどのように以後に結びついているのかの描写が弱く感じた。ヘールシャムの異様さをもっと際立たせ、離れ離れになった三人がヘールシャム時代をより強く回想すれば面白くなったとおもう。

⑪『カイロの紫のバラ』(ウディ・アレン、1985年)★★★★☆☆
1930年代のニュージャージー州ミア・ファロー演じるセシリアはウェイトレスをしており失業中の夫を養っていた。夫は暴力的で仕事を探そうともせず飲んだくれ時には女まで連れ込んでいた(ブス)。セシリアの唯一とも言っていい趣味は映画を観ることで「カイロの紫のバラ」もちょうど5回目を観ていた時だった。スクリーンから探検家のトムが飛び出してきてしまったのだ。セシリアはトムと束の間の時間を楽しむ。食事に行くもトムの持っていた貨幣は現実では使えず食い逃げしたりと映画のような展開に。一方、映画館の観客は端役であっても登場人物がいなくなったことに憤り、トムを演じていた俳優のギルにも苦情が殺到していた。ギルは現実世界に出てきてしまったトムを探し出すことに。たまたまギルはセシリアと街なかで出会いトムの居場所をきく。遊園地に隠れていたトムを映画の中に戻るように説得するもトムは嫌がる。トムとギル。それぞれとデートを重ねるセシリア。ついには映画のなかに入ってしまい、トムとまさか結婚か!?というところまでいくも、映画館に駆けつけたギルに止められる。映画の中のことは隠し事がきかないのだ。ギルはセシリアをハリウッドに連れて行ってくれると言う。夫に三行半を突きつけハリウッド行きを決意したセシリア。トムは映画に戻ってしまったしあとはギルだけが頼りだった。だがギルは、ただ映画の中にトムを戻したいがためにセシリアに嘘をついていた。ハリウッドに連れて行くつもりなど毛頭なかったのだ。セシリアは再び映画「カイロの紫のバラ」に目を向ける。そこではトムが結婚相手と踊っていた。うまくできた秀作だった。セシリアとトムの珍道中にしてしまうと普通だったかもしれないが、そこにギルが入ったことで物語は重層的になった。例えば演じていた俳優ではなく脚本家や監督に怒らせることもできたはずなのに戦ったのはギルだったのだ。それぞれとセシリアがデートをするシーンはおもしろかった。また、映画内映画が展開するところもいい。映画の中に入ってきたセシリアとトムを見て映画の中の人物たちが好き勝手してもいいのかも!と気付き、一人が踊りだすところ。あれはいい。そして最終的にはどちらとも一緒になれないのがまたいい。もともと立場がちがうのだからギルは用事さえ済めばハリウッドに戻る。トムは元いた映画に帰る。そうしたときにセシリアに残ったのは映画の登場人物との思い出だった。心躍る投影。もしかしたら劇中のヒロインは自分かもしれないのだ。そうしてセシリアが心躍らせるように、私たちも映画を観ている。

⑫『SOMEWHERE』(ソフィア・コッポラ、2010年)★★★★☆☆
彼女は何作自分の虚空を埋めるための作品を作れば成仏できるのだろうか。『ロスト・イン・トランスレーション』とおなじ雰囲気が漂っている。登場人物たちはいまの物質面では満ち足りた生活に物足りなさを感じている。大事な何かに触れられていないと思っている。けれど積極的に触れようとはしてこなかった。この積極的には触れようとしないのがポイントであり、だからガツガツはしない。はしたないことはきらい。原点からの再出発とかもいやで今の自分からの手の届く範囲での希望の抱き方をする。ストーリーは、ハリウッドスターでホテル暮らしのマルコ(スティーブン・ドーフ)が離婚した元妻から娘を預かってくれるよう頼まれクレオエル・ファニング)と生活をするうちに己を見つめざるをえなくなる話。このようなストーリーはありがちだともいえるけれどやはりソフィア・コッポラの手にかかると空虚っぷりが半端なくなる。見ていて清々しいまでに空虚。だしたくてだせるもんじゃない。相当に子供時代空虚を感じていたんだろう。このように安易に結びつけるのは憚られるが、マルコとはフランシス・フォード・コッポラでありクレオはソフィアそのひとだろう。人気者で世界を飛びまわり常に人がまわりにいるけれど満たされていない父親。それをそばで見守りながら生活には充足させてもらっているがどこか寂しい娘。当初は、成金がどうでもいい自分の悩みを映画という作品を通してしか肯定できないくだらない話として片付けようとも思ったのだけど、この空虚さは異様で彼女にしかだせないものだろう。イタリアのテレビ番組でサンバを踊るはしゃぐ女性たちを見ながら冷めた視線を送るとこなんかは『ロスト・イン・トランスレーション』を彷彿とさせる。基本的には我関せずなのだ。関わると熱っぽくてやだし、積極性を持たなくても独立独歩で満ち足りているからへつらう必要もない。ただそんな自分にはどうしても満足できない。というか、満足できていない自分ということにしないとやりきれない。だから贅沢な悩みをえんえん描いた映画だといえる。けれどその悩みに付随する空虚は誰にでも再現することはできないだろう。

⑬『天才マックスの世界』(ウェス・アンダーソン、1998年)★★★★★★
すごく面白かった。ウェス・アンダーソンの作品は『ダージリン急行』『ムーンライズ・キングダム』と見てどちらもそれなりによかったんだけど雰囲気を楽しんで満足するというような見方になっていた。けれど本作は雰囲気ももちろん楽しいんだけど脚本がすばらしくて感情の機微が複雑でそれがより雰囲気を盛りたてる構成になっていた。ヒューストンに住む15歳のマックス・フィッシャー少年。数学の難問が解けるほどに頭脳明晰なのにやりたいことをすぐにやってしまう性格(最高!!)でクラブを19も掛け持ちして落第を繰り返していた。クラブに入るだけでなく自分でも作ってしまうアクティブっぷり。ある日新任の教師ローズマリー・クロスが入ってくると彼女に惚れてしまう。優秀な彼女と対等に渡り合おうとアラビア語の話をしたり、気に入ってもらおうと水族館を建てようとしたりする(最終的には魚を水槽で飼うことに)。彼女は未亡人であり恋心が芽生えていたのだ。性格がまわりの友達となかなか折り合わないところ同級生の父親ハーマン・ブルームが彼を気に入る。自宅の誕生日会に呼んであげたりアルバイトに誘うものの乗り気ではなかったが資金提供(水槽購入費)以後は仲良くなり友人になる。ある時マックスが脚本・演出を務めた演劇を披露、ブルームとクロスは懇意になりついにはブルームはクロス先生が好きになり自宅に押しかける。それを目撃していたのはマックスの友人ダーク・キャロウェイ。ブルームは妻がいたから離婚協議に入り、クロス先生は退職を余儀なくされる。マックスはこれほど逆上するほど、クロス先生が好きだったのだ。そのうちにマックス自身も・・をしようとして校長の逆鱗に触れ退学、公立高校に編入。ここで・・と出会う。ブルームにも、クロス先生にも憤り同時に友情を感じもするマックス。次第にツンツンして独自の世界にだけ引きこもっていたマックスは、人間関係に少しずつ目覚めていく。ついにはブルームと仲良くなり(校長の入院する病院で二人は再会)、水族館を建てようと持ちかける。ついに演劇もすることになり(テーマはベトナム戦争)、そこにかけつけたクロス先生。マックスの父親も、・・の両親もやっていていた。マックスと犬猿の仲だったブルームの息子(士官学校の学生)も出演した舞台のあと、マックスは・・とダンスに興じる。それを見つめるブルームとクロス。ラストはさまざまな変遷があったマックスとクロス先生がダンスを踊るまわりの真ん中で気持ちを通わせたのだった。いままでこのブログで書いてきた中では一番あらすじが書きにくかった。それほどにマックスの行動や言動は予想がつかず、人間関係もさまざまだ。なんせ父親の年齢ほどのブルームは友人だし、クロス先生には恋心を抱き突き進むのだから。そしてブルームとクロス先生がくっつくのだから。一寸先は闇、めくるめく展開だ。天才マックスというだれにでも思い出があるようなアクティブな黒歴史。楽しかったけれど今思い出すと思い出したくない、相反する感情を抱かざるを得なかった自分。そんな彼がそのまま人生を生きたわけでもなく、転落人生を歩んだのでもなく、ほどほどに人の気持ちが分かり酸いも甘いもあったあとに、しかし、当初では経験し得なかったような状態が待っていたのが憎らしいほどすばらしい。ユーモアが絶妙。脚本がいい。最も心に残ったのはラストのマックスの演劇のインターベンション、ブルームとクロス先生が久しぶりに会話を交わす場面。いい雰囲気になりクロス先生はさり気なくブルームの髪に触れる。これは、ブルームが怯えつつもマックスの父親に理髪してもらった髪だったのだ。言葉を介さずともクロス先生とブルーム、それを仲立ちしたマックス(そして今は誇りを持てるその父)がコミュニケーションを果たした忘れられないシーンだった。

⑭『バーン・アフター・リーディング』(コーエン兄弟、2008年)★★★★★★
めちゃくちゃおもしろかった。脚本を精緻に組めばここまで遊べるんだな〜。ほんのはずみで何かは起こりうるし、それが教訓になるかといえばそれはその件によるというのが結論か。オズボーン・コックス(ジョン・マルコビッチ)はCIAの退職を余儀なくされ暴露小説の執筆を決意。妻のケイティ・コックス(ティルダ・スウィントン)はハリー・ファラー(ジョージ・クルーニー)と不倫。離婚を決意し夫の総資産を調査していた。パソコンのデータを抜き出したCDをジムに落とす。落としたCDを拾ったリンダ・リツキ(フランシス・マクドーマンド)とチャド・フェルドハイマー(ブラッド・ピット)はオズボーン・コックスをゆすることに。しかしチャドとオズボーンが実際に会って交渉するも決裂。リンダとチャドはデータをロシア大使館に持ち込む。ハリーはネットの出会い系サイトでリンダと出会う。チャドはCDのデータだけではロシアに取り合ってもらえないとリンダと話し、オズボーン宅に侵入。不倫相手の家に帰ってきたハリーが射殺してしまう。チャドがジムに姿を表さないことを心配したリンダは、パソコンが使えるジムのオーナーに依頼し、オズボーン宅に侵入調査してもらう。それを発見したオズボーンはオーナーを射殺。リンダはハリーにチャド失踪を言い、あらゆるものに監視されていると思ったハリーはベネズエラに逃亡(ハリーの妻も不倫をして夫を尾行させていた)。オズボーンは死に(脳死、オズボーンがジムのオーナーを白昼堂々殺そうとするのでCIAが殺した)、チャドはハリーに殺され、ジムのオーナーは死亡、ハリーはベネズエラへ。残されたリンダ・リツキはCIAに匿われ、整形費用を捻出させることに成功。次から次へ展開してまったく飽きないし、ジョージ・クルーニーブラッド・ピットが実にハマっていた。いい役者がこのように絡み合うととてつもなく面白くなることがわかった。今まで観た中では最も二人が光った演技をしていた。ジョージ・クルーニーがうまいし、ブラッド・ピットのバカっぷりが可愛い。リンダ・リツキもいいキャラで、なんでもアリのおばさんだ。緻密な群像劇を最後整形費用という笑いで締めるのも可笑しくていい。

⑮『ストーカー』(アンドレイ・タルコフスキー、1979年)★★★★★★
タルコフスキー初見。おもしろかった。もっと退屈な映画かと思っていたぜ。主人公のストーカーが酒場で出会った作家と大学教授とともにゾーンに入る話。ゾーンへは入場制限があり、突破した3人。同じ所に戻ってきたりしながら水のぬかるみのある地帯をえんえん歩き続ける。ときには衒学的な会話で諍いもする。ゾーンにある部屋は言い知れない何かが待っているとの観測のもとそれぞれが思いを抱いて先に進む。結局はなにがあったのかはよくわからない(砂の部屋の描写はおもしろかった)。よかったのはゾーン内部で終わらず戻ってきたところ。酒場のシーンが再びやってくる(オープニングもここだった)。ストーカーの妻は独白する。経緯を見ているからこそ、ストーカーの野郎がとてつもなく変わった男にみえてくるから不思議だ。もっとも好きなのは、内部に突入してからのトロッコの場面。バッグショットがかっこよかった。色の変化のさせかた、唐突な二幕への突入も手法としてグッときた。