鈴木博之『庭師 小川治兵衛とその時代』/重森千逭『日本の10大庭園』


日本の10大庭園 (祥伝社新書)

日本の10大庭園 (祥伝社新書)




つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

千葉雅也『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』

『現代思想』誌の1月号は「ポスト現代思想」特集だという。千葉が本書で言及しているクアンタン・メイヤスーの邦訳も載るそうだ。春に出た「現代思想の総展望2013」には「減算と縮約 ドゥルーズ、内在、『物質と記憶』」(岡嶋隆佑訳)が載った。

現代思想ポスト構造主義の次には何があるのか?昨年の『現代思想』「現代思想の総展望2013」では「3・11」という時制を引き受けつつ、各分野の再編としかるべきアジェンダ設定を試みた。そして、本特集ではドゥルーズ=ガタリポスト構造主義を批判的に引き継ぎつつ、社会構築主義の悪しき相対主義ニヒリズムによって停滞しかかった思想状況を乗り越えるために、自然的世界の「リアル」と対面する新種の〈哲学〉をもって、社会へのラディカルなコミットメントの道筋を模索していく。  
【討議】大澤真幸×成田龍一
【討議II】千葉雅也×清水高志
【討議III】村上靖彦×西村ユミ
【論考】中沢新一/近藤和敬/小泉義之/篠原雅武/池田剛介金森修/岡本賢吾/野内怜/Q・メイヤスー/G・ハーマン/大村敬一/里見龍/M・デランダ/郡司ペギオ幸夫

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ

現代思想 2014年1月号 特集=現代思想の転回2014 ポスト・ポスト構造主義へ


つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん:朝日新聞デジタル

浅田 「接続過剰」な社会では、相手を傷つけてはいけないという予防的な「思いやり」(それは相手に反発されたくないという自己防衛でもある)がコミュニケーションを貧しくしてしまいます。そこでは批評が不可能になる。「仲良くけんかしな」というルールの下でほめると同時にけなすのが批評なので、けなすとコミュニケーションが断絶するのでは批評は成り立たない。「壮大な失敗作だ」というのは最高のほめ言葉でもあるのに、そのニュアンスが伝わらなくなる。かわって、書店員の書く「ポップ」やネット書店の読者によるレビューが重視されるけれど、それは商品の紹介や消費者の感想であって批評ではない。

千葉 そもそも批評は、ハラスメンタルなものですからね。

浅田 千葉さんの「切断論」はいわば「不良の思想」であるところが面白い。例えば、デリダの責任論というのは、「責任が取れないことに責任を取る」という思弁的な議論だけれど、それを現実に適用しようとすると、おおむね優等生の生徒会長みたいな議論になる。(...)今の「若手論客」と呼ばれる人たちも総じてそんな感じでしょう。ネットを通じて、これまで無視されてきたマイノリティーの声なき声にも耳を傾けよう、うんぬん。(...)具体的には部分的情報社会工学でやれることはどんどんやったらいいと思う。しかし、それは哲学や思想の問題ではない。哲学や思想とは、可能な範囲で工夫することではなく、可能な範囲そのものを考え直す過激な試みだったはずだから。

國分功一郎 「いい加減」な生の姿を記述
人間は実際には、いろいろなことをごまかしながら、なんとなく「仮のマネージメント」を行って生きている。千葉は、そうした我々のいい加減な生の姿から目を背けない。そして、精神分析などの高度な理論を縦横無尽に駆使してそれを記述するのだ。これは本書が、日常の生を語りつつも、哲学の通俗化には陥らず、むしろ哲学そのものの中に、新しい論述の水準を創造していることを意味する。

(文芸時評)ドゥルーズと現代 八つ裂きになる理性、鮮烈に  松浦寿輝
哲学者ドゥルーズについてはすでに多くの解説書や研究書があるが、千葉雅也の著作は解説とも研究ともいささか異なる欲望に衝き動かされて成った一書と見える。千葉氏はドゥルーズの数多の著書を克明に読み解きつつ、置くべき箇所に重点を置き(しかじかの側面を「強く読むなら」といった表現が随所に出てくる)、ときには思いきった戦略的省略を重ねて、二〇一〇年代の今、二十世紀のドゥルーズ思想をどう「利用」しうるかという問いにスリリングな回答を提起している。
 彼が「強く読む」のはドゥルーズにおけるヒューム主義の側面だ。連続性と全体化を強調するベルクソン形而上学ドゥルーズの中には当然あるのだが、当面それは括弧にくくってみる。そして、世界内の個物は不連続的に離散し、すべての事象はあくまで偶発的に生起すると考えた英国の哲学者ヒュームの経験論の方を、その思想的射程を可能なかぎり拡張しつつクローズアップしてみること。この大胆な思考実験を通じてドゥルーズの「ポップ」な哲学がみずみずしく蘇生し、それがまた「動きすぎ」「繋がりすぎ」の病弊に取り憑かれた今日のわれわれへの警世の教えともなる。
 海彼にましますご本尊に向かってひたすらかしわ手を打つばかりといった、明治以来のわが国の西欧文化受容の宿痾はここにはもはやかけらもない。大思想家の遺産の忠実な番人になるのではなく、それをどう「利用」してわれわれの現在の生に役立てるかをまず問うこと。アカデミズムの知的モラルを堅持しつつ、そうした軽やかな運動能力をごく自然に駆使できる若い世代の出現を慶びたい。
 この姿勢を安易に「文学的」と呼んでしまうと、哲学論文の厳密性の水準を固守しようとしている著者の方法論に対して失礼に当たることは重々承知している。しかしある作品の一面を、我田引水の謗りを恐れず強く深く読みこみ、読み抜き、それによって作品に潜在する可能性の豊かさを一挙に引き出そうとする勇気こそ、優れた文芸批評に必要な第一条件であるはずだ。本当は哲学よりもむしろ文学でこうした「読み」の力業が実践されるべきなのだ。この欄であえて本書を取り上げたゆえんである。

佐々木敦
繋がり過ぎる時代、あえて留まること
 思想家を論じるには大きく二通りの方向がある。「○○は何を考えていたか」と「○○から何が考えられるか」。もちろんどちらかを選ぶということではなく、両者は分かち難く絡み合っているのだが。前者を「解説と分析」と呼ぶなら、後者は「応用と展開」ということになるだろう。たとえばフランスの哲学者ジル・ドゥルーズであれば、その著作をつぶさに読み込み、別の言葉に丁寧に置き換えてゆくのが前者であり、そこから思い切って離脱し跳躍し、しかしドゥルーズを越えようとするのではなく、いわばドゥルーズと共に新たな思考を始めることによって、ドゥルーズの哲学から何が考えられるのか、いや、もっと踏み込んで言えば、実際にはそうしていなくても、ドゥルーズならば更に何が考えられた筈なのか、を問うことが、後者の試みの核心だと言える。
 刊行前から各所で話題となっていた気鋭の哲学者・批評家による初の単著は、明らかに後者に属する書物である。ジル・ドゥルーズという可能性を徹底的に押し開くこと。そこで鍵となるのは、書名にもなっている「動きすぎてはいけない」という文言である。今は亡きドゥルーズが、単独で、そして盟友フェリックス・ガタリと共に著した、輝くばかりの書物群に記された思考を簡略に述べることは出来ないが、日本への紹介にかんする限り、それは1980年代前半に浅田彰中沢新一が主導した「ニューアカ(デミズム)」と密接にかかわっていた。バブル景気へと邁進する時代であり、資本主義と情報化が凄まじい勢いで加速していた当時の日本で、「ニューアカ」が魅力的に導入したドゥルーズ(とガタリ)の哲学は、ひたすら動くこと、どんどん変化することへの奨励として機能した。それがドゥルーズ解釈として正しいのかどうかは必ずしも問題ではなかった。ただ、そのように受け取られたのだった。
 しかし、それから30年の月日が過ぎ去り、ドゥルーズガタリも亡くなり、日本も世界も、その姿を大きく変えた。そこで本書の著者は言うのだ。もちろん動くのはいい。だが、動きすぎてもいけない。そして繋がり過ぎてもいけない。グローバリゼーションとインターネットに覆い尽くされた社会で、いま新たにドゥルーズを読むこと。その思想を現在形に変換すること。こうして、かつて浅田彰の『構造と力』がそうであったように、本書は鋭利なドゥルーズ論であると同時に、私たちが生きる「いま、ここ」を明視するものになっている。そこでは「中途半端」であることが力強く肯定される。それは過剰と限界の一歩手前にあえて留まることだ。スリリング、かつジョイフルな哲学書である。

【生放送】千葉雅也×東浩紀「「関係しすぎない関係」を巡って――新たなるドゥルーズ、新たなる人間」

『天才・菊池寛 逸話でつづる作家の素顔』


文春学藝ライブラリーが創刊された。文藝春秋設立90年の記念事業のようだ。創刊の辞にはこうある。


 この10月18日、小社では「文春学藝ライブラリー」を新創刊します。ひとことで言えば、この新ブランドは「名著、良書の復刊」を目指します。サイズは文庫判。お値段は文春文庫より少々高めですが、そのお値段以上に「お買い得」なラインナップを充実させていきます。
 近年、出版界や読書環境をとりまく話題といえば、電子書籍に関するテーマが多くなっています。そんな時代に紙の本で新ブランドを、というと時代遅れのアナクロに思われるかもしれませんが、そうではありません。
 創刊に際して歴史学者磯田道史氏は次の推薦の辞を寄せてくれました。
〈知のファーストフードは手軽でいいが、精密で分厚いしっかり作り込まれた知の産物を味わいたい。しかも、安く。このライブラリーは、そうした昨今読書人の飢渇を癒してくれるはずだ〉
 あたかも樽詰めされたワインが時間を経ることで熟成された風味を醸し出すように、書物も時間を経ることで、読み手の味わい方が変化を遂げることもあるからです。〈知の産物〉は古びた遺物では決してなく、時代の風雪に耐えた、歴史の宝庫からの贈り物ではないでしょうか。
 さて、ここで創刊ラインナップの五冊を紹介します。
『近代以前』江藤淳  『保守とは何か』蘄田恆存/浜崎洋介編  『支那論』内藤湖南
『天才・菊池寛――逸話でつづる作家の素顔』文藝春秋編  『デフレ不況をいかに克服するか――ケインズ1930年代評論集』J・M・ケインズ/松川周二編訳(.....)
 一見すると、現代の問題意識と百年前の言説は結びつかないかもしれません。その橋渡し役を果たすのが、しかもハンディな文庫判でお届けするのが、この「文春学藝ライブラリー」なのです。インターネットになぞらえれば、ハイパーリンクの役割と同じです。
「文春学藝ライブラリー」は、10月から隔月(偶数月)刊でスタートします。12月以降も、山本七平保田與重郎磯田道史、R・ニクソン井上ひさし氏等の著作を、順次刊行していきます。
 最後に、前出・塩野七生氏が創刊に寄せた一文を紹介します。
〈今よりは格段に情報が少なかった時代、人間にはより多く、より深く考える時間があった。その時代に書かれた、それも名著とされてきた著作を読んでみるのは、読書が職業でない人々にとっても、発想の転換に役立つのではないかと思う。
 情報の海に溺れる愚かさから救いあげてくれるのは、この種の救命具ではないのか、というのが、これまで長く歴史上の人間たち、つまり情報が少なかった時代に生きた人々を書いてきた私の正直な想いでもあるのです〉
 私たち編集部が「文春学藝ライブラリー」に期するものも、同じ志です。

そんな文春学藝ライブラリーの一番目を飾ったのが本書。

来年には岡崎乾二郎ルネサンス 経験の条件』がライブラリー化することが決定しているらしい。斎藤環が解説を書いたとツイッターで呟いていた。期待して待ちたい。



ルネサンス 経験の条件

ルネサンス 経験の条件

アンドルー・ゴードン『ミシンと日本の近代 消費者の創出』

ミシンと日本の近代―― 消費者の創出

ミシンと日本の近代―― 消費者の創出

日本の家庭に入った第一号ミシンは、ジョン万次郎の母親への土産物だった。そして1920年頃までには、アメリカのシンガーミシンが無敵の存在になる。独特の販売システムを確立し、割賦制度も浸透させた。太平洋戦争は「もんぺ」をきっかけに、洋装への移行を一気に加速させた。そして戦後になると、「内職」にミシンを「踏む」女たちの意識は、1950-60年代以降の「中流意識」の膨張に連動していく。ミシンはこの多種多様な「近代」という経験を、すべて見ていた。一つの「モノ」に即して、消費者の側から、経済・社会・文化を語る画期的な歴史。

日本語版への序文 / はじめに / 序論
第一部 日本におけるシンガー
1 明治期のミシン / 2 アメリカ式販売法 / 3 近代的生活を販売し消費する / 4 ヤンキー資本主義に抵抗する
第二部 近代性を縫う――戦時と平和時
5 銃後の兵器(ウォー・マシーン) / 6 機械製の不死鳥 / 7 ドレスメーカーの国 / 結論

渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)
小さなモノに光、大きな歴史照射
 米国の「知日派」というと、最近は外交・安全保障の専門家のみ注目されがちだが、著者は歴史研究における筆頭的存在だ。
 ある日、彼は、ふと1950年代の日本の既婚女性が毎日2時間以上も裁縫に費やしていた事実を知り驚愕する。それが今回の知的探究の出発点となった。
 ふつうの日本家庭に入った最初のミシンはジョン万次郎が母親へ贈ったもの。シューイングマシネ(縫道具)がマシネと略され、さらに2音節に縮まって「ミシン」となった。
 その出現は〈洋裁〉と〈和裁〉という新語を生み、キモノを〈洋服〉に対する〈和服〉とし、〈日本〉と〈西洋〉が対峙(たいじ)する独特の世界観を固着化した。
 とりわけ「世界初の成功した多国籍企業」と称される米シンガー社の家庭用ミシンは10年代までに日本でも無敵の存在となった。それはまた「セールスマン」という近代的職業、女の「自活」という発想、消費者(割賦)信用という制度の拡張を意味した。
 しかし、同社がその「グローバル」な販売システムを頑なに固守するなか、32年には日本の従業員が「ヤンキー資本主義」に抗(あらが)うべく大規模な労働争議を起こす。同社を去った従業員は国内メーカーへと移り、逆に海外の現地システムへの適応を徹底することで、戦後、米国市場を席巻した。
 興味深いのは、戦時中にあっても(旧約聖書の句をもじった)「踏めよ 殖やせよ ミシンで貯金」といった広告が数多く出回っていた点だ。近代的生活への渇望は戦火に絶えることはなかった。
 それゆえ戦後、高度成長期に「専業主婦」という言葉が一般化する頃には「洋装店」が激増し、「洋裁学校」は花嫁修業所としても大繁盛した。当時、欧米に比べて日本の既製服の割合は半分以下だったというから凄い。
 ミシンは「営利のためであれ家族のためであれ、生存のためであれ余暇のためであれ」という多様な意図を有する使用者を「大衆中流階級」へと統合していった。ミシンが労働者の窮乏や分断を促すと『資本論』で警告したマルクスの懸念は日本には該当しなかったと著者は説く。
 膨大な一次資料の収集と精査。安易な日本特殊論を忌避する比較史的視座。歴史を美化も卑下もしないバランス感覚。プロの学者としてのプライドを感じる。
 ミシン裁縫に励む女性と戦後の政党イデオロギーとの関係など、さらに知りたい点もある。
 しかし、小さなモノに光を当てて歴史の大きなうねりを照射するという、魅力的ながらも、実はかなり困難な研究手法の見事な成功例であることは間違いない。

柏木博(武蔵野美術大学教授・デザイン)
加藤陽子(東京大学教授・日本近代史)

平松洋子(エッセイスト)
 こどものころ、母が真剣な表情で足踏み台つきの年代物のミシンに向かい、ワンピースを縫ってくれた。黒いボディに「SINGER」の金文字。全国の家庭に鎮座していたあのミシンが、かくも深く日本の近代社会の形成に関わっていたとは! 歴史家の緻密かつ懇切な分析が、重量級の知的興奮をもたらす労作である。
 日本近現代史の研究者として広く知られる著者は、戦後の労働運動史を調べる過程で、ある事実に遭遇する――一九五〇年代の日本の既婚女性は毎日二時間以上も裁縫に費やしていた。
 外務省記録からミシン業界紙、婦人誌、今和次郎大宅壮一ほか言論人の論説まで膨大な資料を駆使する。ジョン万次郎は未知の道具に感激してミシンを買い送ったが、日本の母は使えないジレンマを味わった。なぜなら、それまでの日本の衣服にとって【手縫い/仕立て直し】が前提だったから。しかし、シンガー社の巧みなアメリカ型販売(セールスマンや割賦販売)によって浸透、「和裁」「洋裁」の新語を生み、“和洋”という二重の概念のもとでミシンは特有の近代性を育てたと指摘する。そして家庭内に経済と文化を持ちこみ、女性の自活を促しながら社会階級やジェンダーに絡んでゆく。戦時下、生き延びる技術として裁縫の重要性を認識した日本の主婦が、戦後の消費経済と社会秩序の担い手としてミシンに向かう姿をリアルに浮かび上がらせる手つきは、見事というほかない。
 こと日本にあって、ミシンはオリジナルな役割を演じたと説く。「マルクスの言うところの、本来その使用者を窮乏化させる道具ではなかったし、ガンディの主張したような質素な生活をする手段でもなかった」。中間層の暮らしに文化的な意味をあたえ、社会階層を縦走しながら女性のアイデンティティを統合したと論じる視点に、なみなみならぬ日本理解の深甚を感じる。モンペの意義にも蒙もうを啓ひらかれた。大島かおりの訳文は理解と共感を助けてすばらしい。