映画鑑賞3

①『ファーゴ』(コーエン兄弟、1996年)★★★★★☆
バーン・アフター・リーディング』を観たすぐに観たものだからずいぶん似ているなあと思った。コーエン兄弟は二作目だが、だいたいこういう作風なのかもしれない。おもしろいから大歓迎だ。いつまでも見ていられる。ラストを妻と夫の日常的な幸福で終わらせたのは非日常的なスペクタクルと対比してのことだろう。コーエン兄弟はこの非日常的な、何かのはずみでいくところまでいってしまった世界を撮るのがうまい。本当はどちらのありようにシンパシーを感じているのだろうか。ストーリーは、主人公の男が金が必要になるも義父は金持ちなのに金を貸してくれない。どこで妻を誘拐させ身代金を義父に払わせ誘拐犯と山分けしようと考えた。自分が部長を務める車屋の後輩社員に紹介させ二人組に仕事を依頼。新車を先に渡し報酬は身代金が手に入ってからということになった。妻を誘拐したはいいものの逃走中に警官を射殺(しつこく免許証を要求してくるから)、殺害現場を目撃したカップルも撃ち殺す。警察が動き出し、犯人が車屋に電話(後輩社員に)していたことが判明。お店に警官がやってくる。主人公が身代金を持って行くことに義父は反対、自分が持っていくが誘拐犯に殺される。誘拐犯は顔に銃弾をくらう。雪道に身代金の大半を埋め相棒のもとにいく。少額の身代金を渡し車は自分が持っていく、なにせ身代金取引の過程で銃弾まで負ったのだからというも、あえなく射殺される。警官は車屋に再びくる。主人公は車の数を数えにいくと言い残し逃亡。雪山で警官は誘拐犯を目撃。相棒をミンチにしているところだった。足を撃ったあと、捕まえる。主人公もついにとっ捕まった。めくるめく展開は飽きない。ジョエル・コーエンの妻、フランシス・マクドーマンドがうまく『バーン・アフター・リーディング』とおなじで彼女が登場しただけでわくわくする。

②『恋人たちの予感』(ロブ・ライナー、1989年)★★★★☆☆
アメリカでは7月、日本では12月23日に公開されたそうだ。クリスマスが初めて素敵な日だと思えた気がした。ロブ・ライナーは『ミザリー』や『スタンド・バイ・ミー』の監督。役者としては『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でジョーダン・ベルフォート(デカプリオ)の父親を演じていた。ざっと観ただけでもなんだかとても深く余韻の残る映画。主演はビル・クリスタルとメグ・ライアン。二人が付かず離れずの11年間を過ごし、付き合って3ヶ月で結婚する話。脚本はのちに『ユー・ガット・メール』を監督するノーラ・エフロン。あいだに関係ない老人の結婚秘話を織り交ぜながら映画は進む。ビリー・クリスタル演じるハリー・バーンズは男と女に友情はないと言い切る。だから親友の恋人だったサリー・オルブライト(メグ・ライアン)に車中で手を出しそうになった。そこでサリーは断るわけだが、こうして二人は出会った。その後数年おきに再開する二人。しかし他愛ない話を繰り返すばかりで取り立てて何も進展しない。お互い相手のかなりディープな恋の相談にも乗り合う。セックスのことも屈託なく話す。そんなうちにサリーは大失恋を経験し、ハリーと一夜を過ごしてしまう。お互いのかつての恋人はいまでは結婚したのだけど、その二人も応援してくれる。そこでは折り合いがつかず付き合うには至らなかったがその翌年のクリスマスで再会。ついに結婚するのだった。このクリスマスでのハリーのプロポーズがかっこいい。そこまではグダグダでじょじょに恋仲が深まっていく様子がうまく表されていたがラストで引き締まった。それに対するサリーの応答も素敵で、華やかではないもののいい映画だったとおもう。

③『メメント』(クリストファー・ノーラン、2000年)
98年に『フォロウィング』で監督デビューしたノーランの二作目。今年は『トランセンデンス』と『インターステラー』の公開が控えている。

④『未来は今』(コーエン兄弟、1994年)★★★★☆☆
コーエン兄弟は『バーン・アフター・リーディング』『ファーゴ』に続き三本目の鑑賞。『ショーシャンクの空に』のティム・ロビンスが主演。悪役にポール・ニューマンが配されている。脚本にはサム・ライミも参加。上り調子だった会社だったが飛び降り自殺をしてしまった社長の後任として大学卒業しばかりの・・が社長として迎えられる。決して・・の才覚を見込んでのことではなく使えないからこそよいという判断だった。見込み通り無能っぷりを発揮、新聞には能なしだと書かれる始末。ピューリッツァー賞を獲ったほどの新聞記者もスパイとして乗り込んでくる。そのうちにずっとあたためてきたアイデアのフラフープが大当たり。会社はかつてないほどの利益を叩き出す。だがそんな急成長を快く思わない面々によって・・は落ちぶれていく。ついには死にかけるが時計台を見守っていた・・が時間を止めて、そこに亡くなった先代の社長が登場。実は・・が配るはずで配れなかった・・には次の社長に株式を譲ると書かれていたのだった。・・は社長に復帰し、今度はフリスビーを開発。というストーリーで作品としての面白さを特筆はできないけれど、飽きずに最後まで観れた。なにより飽きさせないことを常に実現できているコーエン兄弟はすごいと思う。やはり映画は飽きさせてはならない、とどこかで考える自分がいる。やはり・・が◯を書いたスケッチをいつも持ち歩いており最初はポカンとするしかなかったのが、フラフープ、そしてフリスビーとつなげていったのは面白かった。一言添えれば、誰が・・を擁護して誰が・・に批判的なのかがよりクリアに示されていればなおのこと面白かったのにとは思う。スパイできた女性新聞記者の気持ちの動きも分かりにくかった。窓ガラスが割れて先代の社長が死に、そのあと飛び降りようと走った・・が強化ガラスで落ちれないみたいなテンドン的展開もスタンダードでよい。

⑤『ノーカントリー』(コーエン兄弟、2007年)★★★★☆☆
原題は「No country for Old Men」。トレーラーハウスに住むルゥエリン・モス(ジョシュ・ブローリン)が殺人現場を発見。そこには麻薬とトランクに入ったお金があった。水を欲しがった生き残りに一旦は何もくれてやらなかったものの夜に戻って施してやる優しい一面もあるモスだが、現場に再び来ていたギャングに顔が割れてしまい、攻撃されるはめに(ここで川に逃げ込んだモスを犬が追うのだがここがコーエン兄弟らしい。普通は川で必死に隠れようとするモスとギャングの対比にするところを犬を加える事でより複雑化する)。妻を逃して自分も逃げる。だが、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)はどこまでも付きまとう。筒みたいなサイレンサーや、屠畜銃(空気砲)で無容赦に人を殺す。怯えながら、撃たれながら、それでもモスは逃げていく。妻に危害が加わる可能性を知ったモスは自分のところに呼び寄せようとするもあえなく殺されてしまう。妻に会いに行ったシガー。トミー・リー・ジョーンズ演じるベル保安官が何やら語りながら映画は終わる。とにかくハビエル・バルデムの演技がすごい。彼はアカデミー助演男優賞を受賞したわけだが、それだけの見事な演技。おっとろしいとはこのことだ。しかも普通の銃じゃないからなおのこと怖い。上にも書いたように、空気砲で道行く運転手の頭にぶち込んだりする。筒の銃も怖すぎる。主役のブローリンはマシュー・マコノヒーみたいなカーボーイみたいなやつ。ベトナムから帰還した元兵士。そんな息も切らせぬ展開に夢中にならざるを得ない。途中で呆気無くモスが殺されたのには驚いた。モスはシガーに追われながら血だらけになり歩いていた子供から服を恵んでもらった(買ったけど)わけだが、シガーもいきなり道の真中で追突されて同じ子供に服を貰ったのには笑えた。まったくちがう人間に見えた二人なのに、それをシガーの人間っぽさへの退行としてではなく見せた手腕がうまかった。ラストはよく理解できなかったが、面白いのはまちがいない。ただ、『バーン・アフター・リーディング』『ファーゴ』のようなよりあっけらかんとした救いのない悲惨さのほうが好きではある。

⑥『恋はデジャ・ブ』(ハロルド・ライミス、1993年)★★★★☆☆
最近亡くなったハロルド・ライミス監督の作品。ビル・マーレイ出演作は『ロスト・イン・トランスレーション』『天才マックスの世界』と観てきて本作も確かによかった。いたいけに頑張る役柄としてハマっていたからだ。さっき読んだ記事でも紹介されており観てみたわけだ。ビル・マーレイ演じる男はまともな天気予報士だったのだが、出張先のベッドで目を覚ましてみるとまた同じ日が繰り返してしまった。おかしいと思うもののまた同じ日が繰り返す始末。やけを起こした主人公は、日々積み重なる記憶を頼りに大胆な行動を取るようになる。平気で知らない人に話しかけたり、慎重な扱いをしていた友人を少し適当に扱ってみたり。前日の反省を次の日(同じ日なのだが)に改善して日々レベルアップしていく。そうしてついには同僚で気になっていた女性を口説くことに成功。翌朝目が覚めると次の日になっていた。そういう話である。アイデアが面白い。一日をまるまる繰り返す演出はもちろんしないけれど、映像の切り方、繰り返し方がうまい。また、ラスト近くのダンスホールのシーンで主人公がみんなに好かれているのもなんだか嬉しい(腰痛が治ったのは貴方のおかげだとか褒められている)。落札もいろんな人が手を上げた挙句、好きだった女性が破格の値段で落札するその感じも嬉しいものだ。どうしたって自分に引きつけてみてしまう。今日が改善の余地ある繰り返しの一日ならば?と考えてみずにはいられない。ピアノだって始められるじゃないか、くよくよしている場合じゃねーぞと喜ばせてもらった。

⑦『さよなら渓谷』(大森立嗣、2013年)★★☆☆☆☆
邦画ってなんでこうなんだろーな。作りこまれていてそれなりに切実なのは分かるんだけど土台がなんかちがうって感じだ。こういう新潮45に載ってそうなルポルタージュをそれっぽい映画に仕上げてそういうのを読むおっさんとかほろりと泣きたい女とか観客にしても仕方ねーんじゃないかと思ってしまう。少なくとも『そして父になる』や『共喰い』もそういう話だったわけだけどそれらと比べると倫理的な処理が甘いというか、自分は耐えられなかった。二点にしたのは真木よう子の頑張りっぷりに。ストーリーを簡単に言うと、ある女が子供を殺した。捜査が始まっていたところに尾崎俊介大西信満)が共犯であると通報があり、通報したのは同居している尾崎かなこ(真木よう子)だった。週刊誌の記者である渡辺一彦(大森南朋)は調査に乗り出し、鈴木杏と共に俊介がかなこを16年前にレイプしていたと割り出す。集団レイプにあったかなこはなぜいま俊介と同居しているのか。そこに存在するのはどのような愛なのか。それがこの映画だ。正直、こんな愛のかたちなんてこれまでにさんざん描かれてきた類のセンセーショナルな分かりやすい困難な愛であり、そんなものはちっとも見たくない。でもどうしたってこういう愛の描き方は続いていくんだと思う。大盛立嗣、園子温青山真治的なものと、是枝裕和的なものと分けてもいいかもしれない。ようは根っこのところの題材はおなじでその調理の仕方に彩りがあるだけなんだが、映画の醍醐味はその土台のとんでもなさにあるんではないのか。こういうのを突きつけられるとグザビィエ・ドランがどうのこうのと腐すのもばからしくなる。腹がたったのはラストで、大森南朋が夫にきくのだ。「レイプをしてかなこに出会えていたのと、レイプをせずかなこに出会えていなかったのとどちらがよかった?」そんなクソもくだらねえこときいてんじゃねーよ。『その男、凶暴につき』と同じような女性蔑視というか性の手つきの適当さを感じた。もう少しまじめくさらずだけどセンシティブで切実な今どきの映画は撮れないものなんだろーか。

⑧『スノーピアサー』(ポン・ジュノ、2013年)★☆☆☆☆☆
いやいやいやいやいやいやいや。これはきつかったすわー。完膚なきまでにつまんなかった。列車が雪山を走っていてかれこれ18年走っていると。そのあいだ列車にいる人らは外に出ずに、後方に貧困層、前方に富裕層がそれぞれ棲み分けて生きてきたと。支配されている貧困層がなんとかして前方を目指していく、そういうストーリーなわけです。予告編でもそれで盛り上げるもんだからyoutubeでそれだけ見ていくと心ウキウキで見に行くわけですよ。でもアクションはつまんないし、映像が美しくない。列車を前に進むにつれていろんな部屋があるのはまま面白いんだけど、造形としての魅力が皆無。ティム・バートンに撮らせたら夢の様な世界になったんではないかなんて考えてしまう始末。あとずっと話が暗い。韓国映画に独特の吹き上がる情念のようなダイナミックさと結託した暗さならいざ知らず、今作に限ってはダメな方にでてしまったなと。あと構図がよくわかんない。前方にみんなで攻め込んで何がしたいの?首を獲って貧困層でも豊かに暮らせるようにしたいのか、と言うとそうでもないらしい。ソン・ガンホは急に列車の外に出ようと横に付いてる扉を開けたがるし。視線があっちゃこっちゃいってしまう。先頭にいくとエンジンと開発者、そして秘書みたいなんがいるんだけど、富裕層のくせに生活がちっとも楽しそうじゃない。こんなちんけな数十人が生き残った世界(列車)のなかでしょうもない縄張り争いしてんなよと言いたくなった。99:1みたいな構図(『エリジウム』みたいな)に魅力を感じたのかもしれないけど、テーマがごちゃごちゃしているからどこにも入り込めなくって最後まで置いてきぼりだった。なんで18年も先頭にいくのが成功しなかったのか。どういう葛藤があったのか。メシはどうやって調達してんのさ?(まずそうなステーキむしゃむしゃ食べてたけど)先頭にいた男はどんな野心があったのか。もう少し説明して鑑賞者を浮足立たせてもいいと思う。あと、列車が最後には雪崩に巻き込まれて大破するわけだけど、ちんまい世界でごちゃごちゃやってきたのにラストまでそうやって意味不明にするのか?助けたかった貧困層の殆どはこれで死ぬわけだけど、先頭への突入を成し遂げた喜びはどうやって分かち合ってそうやって鑑賞者はカタルシスを得ればいいのか。ストーリーがあいまいすぎるとおもう。最後外に出た親子が雪山でシロクマ見て終わりってそりゃねーよ。

⑨『青春の殺人者』(長谷川和彦、1976年)★★★★★★
素晴らしすぎた。しかも、この監督はこれ以上の作品を以後作っていくにちがいないという確信を得られてしまうから、尚のこと恐ろしい。つまり全力を出し切って作った感じがしないのだ。もちろん心血注いだろう。でももっとすごいことをやってのけるその原点を見る思いのする作品だった。現にこの後『太陽を盗んだ男』を見事監督するのだが。そして沈黙してしまうのだが。この輝かしい日本映画において重要なことをまず言うのであればそれは原田美枝子だろう。あまりにも美しい。あどけない表情、溢れる乳房。おっぱいが美しすぎる。黒髪も似合っていてそれだけで星は六つだ。主演は水谷豊。『相棒』の彼しか知らなかったのだが熱演だった。両親を思いがけなく殺してしまいそうな妖しく危なっかしい雰囲気のある22歳に見えた。ストーリーは、順(水谷豊)が自宅に帰ったところから始まる。順が付き合っていたケイ子(原田美枝子)のことを両親はよく思っていなかった。順はバーを経営しておりケイ子はそこで働いていた。順にまとわりつくケイ子を蛇呼ばわりする始末。父(内田良平)はケイ子が子供の頃母の彼氏の手篭めにされたと言い出す。それを聞いた順は怒り父を殺害。それを見て順をかばおうとした母(市原悦子)。ナイフを持ち口論になり挙句こちらも殺害。順はバーに向かう。店を閉めさせ二人で逃亡することに。ケイ子の実家に寄り、死体を積み込んで車を走らせる。池に捨てたあと、警察の質問もかいくぐり海へ。うまく逃げれるように思えたもののもう一度バーに戻りたくなった順。ケイ子を外においてガソリンを店に撒き自分は天井に紐で手を縛って自殺を試みる。ケイ子の声のなか燃え盛っていたが命からが外に飛び出す。ケイ子は探すが順は見つからない。順はトラックに乗り込みどこかへ向かうのだった。印象的なシーンがある。警察の尋問を受け、普通は何もおかしいところがないように振る舞うところを、順は親を殺したと言う。しかし警察は取り合わない。つまらないことを言うなという。ここで順は「権力は俺を捕えないのか」というのだ。うしろにデモの声を響かせながら。デモの声をうまく劇中に取り入れられているだけで感動ものだが、この警察との批評的な対話は魅力的だ。映像のコントラストも見事で、炎の燃え盛る様子と夜の闇、この明と暗の対比がうまく使われている。映画はここまでやれると教えてくれた作品だった。

⑩『凶悪』(白石和彌、2013年)★★★★☆☆
『さよなら渓谷』のところで新潮45っぽいものが原作の映画という括りをしたけれど、本作はまさに新潮45ルポルタージュを原作にしている。連続殺人犯の男(ピエール瀧)が死刑を前にしてしゃばでの先生(リリー・フランキー)を共犯として訴える話。訴える相手は雑誌の記者(山田孝之)で、当初は誰も信じていないが熱心に取材し記事にしていくことでデスクはじめ世間にも知られ、ついに先生は法廷に引っぱり出されるまでになる。この熱心な取材が厄介で、ピエール瀧とリリーによる残虐な仕打ち(保険金殺人で老人に鞭打つところ)のシーンが結構長い。この映画の大部分はこの仕打ちに使われている。ヤクザな世界の描き方はいたって普通だから、少しダレた。だがラスト15分はかなり面白い。あれだけピエール瀧とその先生(映画の冒頭付近ではなかなか姿を表さない)の異常性を強調したあとで、山田孝之の異常性に視点が移るのだ。それはラストのリリーの名演技(アカデミー賞助演男優賞を受賞したのが大いに分かるし、現在の日本の俳優の中で最もうまいんではないか)において分かりやすく突きつけられる。俺を一番殺したかったのはピエール瀧でも他の誰でもなくお前だろうと。お前の部分は発言ではなく対面しているあいだの硝子をコツコツ叩くことで表現。これがよかった。この発言のあと硝子には一人残された山田孝之の顔が映りこみ、観客はどうしたって山田孝之の心理を推察する状況に持ち込まれる。そのままキャメラ山田孝之を真ん中に捉えたまま引き下がり、エンドロール。余計なシーンを入れず潔よい。ほかに興味深かったことで言うと山田孝之の家庭。精神を病んだ母親と池脇千鶴演じる妻と三人暮らし。池脇千鶴がいい。母の世話を一手に担わねばならず、山田孝之を責め立てるのだ。雑誌に山田のレポートが載るとなおいっそう責める。保険金目的で老人をいたぶったリリー&ピエール瀧山田孝之が交差する瞬間である。濃いルポルタージュの映画化という最も日本で得意とされ陳腐化している手法に少し手が加わったことで、考えるための余韻が生まれたのだった。

⑪『ハンガー』(スティーブン・マックイーン)★★★★★☆



⑫『アデル、ブルーは熱い色』(アブデラティフ・ケシシュ★★★★★★
アデル、ブルーは熱い色レズビアンの恋愛がつまびらかになっており、それを端的に興味本位に受け取ることも可能。まずそこが驚くべきことになっている。監督の意図として下品な映像になっていないから、深く読み取る気持ちにもなる。主人公は思春期に性の揺らぎがあった。というか、男性のことが好きだったのだろうが青髪が横を通ったことで一変してしまう。壮麗な同級生への愛に疑問を抱いてしまい、別れを切り出す。“偶然”ゲイバーで再び出会ったエマはその後学校へも迎えに来る。まわりの学生に囃される。しかし二人は愛欲に溺れる。それぞれを求める。スティーブン・マックイーンで慣れっこにはなっていたが、モザイクが剥がされればむきだしのセックスが展開されている。ペニスを介さないセックス。この描写をしきったことでもっても見る価値はあるだろう。ただ、このセックスはどこかみすぼらしい。二人とも美しい肉体というわけではない。どこか素朴でありふれた身体の持ち主なのだ。だからか、欲情はしない。展開する熱いセックスをただ見守るだけ。スティーブン・マックイーンの美しさの拘りと対比したくなる。あちらはいくら牢獄の壁に食品と便を塗りたくろうと、白人に黒人が鞭打たれようと尊厳と言う美名があった。こちらにはただのそれだけでしかない身体しかない。それがもつれ合う。青い髪のエマは美術学生のステレオタイプともいうべき破天荒さでそれを受け入れるのが当然のような振る舞いをする。ただ、アデルの家に招かれた彼女は、父親の質問に彼氏がいると答える。父親はいかにもサラリーマンというべき内実を求めるが、エマはそれに従う。絵を描くなどという不安定な職だけ貫こうとしてるわけではない。安定した彼氏がいるのだと。アデルは驚いただろう。自分を曲げるところをみてこなかったはずだから。安定あっての不安定を求めると宣言したエマに対してアデルにも夢があった。幼稚園の教師になること。アデルは教師に、エマは金髪の画家になっていた。二人とも夢を叶えたはずなのにアデルは暗く、エマはにこやかだ。アデルはパーティーのために料理を拵え準備をいってに引き受けている。エマは何もしない。使うだけ。暗い顔のアデルはいちゃつくエマを見ながらさみし気で、夜にはエマを求めた。エマは反応しなかった。アデルはこれまで断ってきた幼稚園の同僚の誘いに乗る。非日常のノンケの世界のバーでダンスをしながらキスを交わす。自宅に帰ってきたアデルにエマが問う。いま、車でキスをしていた男は誰だ。あの男のペニスを咥えた口で私とキスをしていたのかと。出てゆけ、アデル!アデルはエマを失った喪失感に打ちひしがれる。幼稚園のお遊戯会のあとも独りの部屋で泣き凹む。エマを呼び出したアデルは、いまだ気持ちが離れていないと告げる。求めていると積極的に示し、一時はレストランの店内でもつれ合う。しかしエマにその気はない。出て行くエマ。追えないアデル。久しぶりに招待状がとどきエマの個展にいくと(真っ青なドレス!)アデルがモデルとして描かれた絵画が大きく構えていた。妊婦の時から付き合い始めた女がモデルのものもある。二人は今付き合っているのだから。かつてのパーティーで話しかけてきたアクション俳優は今では不動産業をしていた。アデルはギャラリーを後にする。不動産業の男は俳優として名指されるとその気になっている。さっきまで映画界はコネだのなんなので腐り切っていると言ってた舌の根の乾かぬうちに。アデルの夢は幼稚園の教師だった。エマはそれはあなたのやるべきことじゃない、あなたは言葉を発表すべきと言っていた。だがアデルはエマと同じように夢を実したのだ。世間的な野心の度合いはちがったとしても。アデルは吹っ切れただろう。具体的にきっかけがあったわけではない。おそらく元妊婦とのいちゃいちゃかもしれない。でもそれだけが決定打ではないだろう。積もり積もったものがアデルを踏み出させた。男と付き合いエマただ一人の女を経験して再び男に戻ったアデル。思春期の揺らぎの後素直に突き進むままに恋愛を重ね落ちつかないものの見方を得たアデル。
・素直な変遷(男女男)、そのあとはどうなるかわからんという曖昧さを残したのがよかった。ドランの押し付けがましさと比べるとより自然で、信じすぎてもいけないがクソつまらないステレオタイプの届かないようなレズ描写でぐっときた。
・スティーブンマックイーンのような美しく酷使される身体というよりもだらしなさがあってより日常だと思った。鼻水はダラダラでるしはっきり泣かないし(微妙な泣きが結構ある)、エマは独特なレズっぽさでその普通っぷりがよかった。
・普通のサウンドデモと地続きにLGBTデモがあってその地続き感がうらやましかった。
・エマが孤高なのに可愛い嘘をつくところがよかった(アデルのために)。
・エマがアデルを責め立てるのがよかった。エマでさえ決して成功してるとは言えない(でもあのギャラリーで個展したから成功したのか?)のにアデルの成功を勝手に規定するあたりがタチっぽかった。セックスはだんだん男女みたいになったが、どう見ればよいのか。想像力の貧困?型?原始そうであった?
・授業での朗読の効果はよくわかんなかった。
・おっぱいは二人ともでかい。

ローン・サバイバー



大統領の陰謀』(アラン・J・パクラ、1976年)



ソフィーの選択』(アラン・J・パクラ、1982年)




パンズ・ラビリンス』(ギレルモ・デル・トロ



⑯『ザ・マスター』(ポール・トーマス・アンダーソン、2012年)
昨年映画館で観たが再び鑑賞。


パルプ・フィクション』(クエンティン・タランティーノ、1994年)


『ベニスに死す』(ルキノ・ヴィスコンティ、1971年)

若者のすべて』(ルキノ・ヴィスコンティ

ブエノスアイレス』(ウォン・カーウァイ

死霊のはらわた』(サム・ライミ

トラフィック


メランコリア』(ラース・フォン・トリアー、2011年)


『マダムと女房』(五所平之助、1931年)

ヴァージン・スーサイズ』(ソフィア・コッポラ、2000年)

こまどり姉妹がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(片岡英子、2009年)