六本木クロッシング「アウト・オブ・ダウト」

全体の感想としてはつまらなかった。東日本大震災原発事故以後の文脈における展示を目指したのは伝わってくるが如何せんあいちトリエンナーレを観てしまっている。そうすると、この展示ではあまりにも弱い。比べる必要はないと言われればそうなのだ。でもなあ。テーマ性が洗練されていないこともそうなのだけど、それぞれ作品の強度が高いとは思えなかった。

具体的に見ていこう。中村宏にまずビビった。言わずと知れたルポルタージュ絵画の大御所だが、やっぱすごい。こんな傑作を弱冠二十代前半にして描き切ったのだ。才能とはこういうことを言うのだろう。中村の画の正面に構える風間サチコ。こちらも迫力があり、切迫感がある。絵画に思想がうまく乗っかっている。いい作品。入口すぐの小林史子の作品も気になった。食卓、食品、椅子。絶妙な配置によって独特の雰囲気があり、記憶に刻まれる。何度目の展示だよ!という赤瀬川原平の一群(石子順造展でも見た)も大事なのは間違いないから、最初の展示室では展示全体への期待が高まった。

だが、次の展示室の小泉明郎さんの映像作品は生理的に合わなかった。意図したことはなんとなく分かるのだが、政治的であることを志向する作品は紙一重で良い方にも悪い方にも転ぶ。この展示室以後、すごくいいと率直に思えるものは少なかった。泉太郎、千葉正也、そして菅木志雄ぐらいだった(菅は別会場の展示も良かった)。奥村雄樹は頭だけという感じがしてフィジカルには伝わってこなかったし、丹羽良徳のような政治的な作品も既にそうである嘲笑の対象を再度俎上に載せる手つきが好きではなかった。再度の嘲笑があっても勿論いいのだが、再度の接近とセットでなければならない。荒川医と南川史門の作品は小泉明郎の政治性の無さだけが残った虚空のような作品(なんて失礼な言い方)で、遠藤一郎はこのままどこまでも行くのだろう!という作品。そうと言われなければ中平卓馬の作品は彼のものとは気づけない。朝海陽子の写真も他の大勢の写真家のそれとどう違うのかてんで分からない。写真ってなんなんだろうなあ。写真への評価ってどうやってなされているのだろうか。おのれの見る目はどのようになっていくのだろうか。ただつまんないということでなくて、評価する目について考えずにはいられなかった。

問題にしたいのは唯一、サイモン・フジワラだ。否定的に見た。けれど残るものがあった。それはなぜかと考えていた。奥村のような作品とも言える。言語的に肥大化した作品。でもなんかちがう。歴史との接続の作法は浅薄な気もするが、立ち位置がアウトロー的なのだ。山師的な趣きがあってそこがいい。都現美の展示(ゼロ年代のベルリン)ではもう少しすんなり当たり障りなく見れたのに。82年生まれというのが驚きだった。死没しているか六十代ぐらいの作家に思っていた。千葉正也の「ゆみこ」のコミックは抜群に良くて、時間が押していたのにもかかわらず全て読みきった。続編希望する。

MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在- 東京巡回展 - 〈B術の生態系〉Bな人のBな術