中原浩大 自己模倣

すばらしかった。感情だけでものを言うのは憚られるが、それでも尚すばらしかったというべきだろう。味わい尽くした。
容易に判断を下そうとすればポストモダン以後関係性の美学的な作品として、自立よりも作品という概念自体に疑念を示しオルタナティブを目指す活動のひとつと映るだろう。中原の作品にそんな評は当て嵌まるが、見渡せばそんな作品は溢れきっている。飽和しきっていて欠伸がでるほどだ。中原の作品にも当て嵌まるのだ。でもちがうのだ。展覧会として自立している。作品群はそれぞれが個性的でくくることができない。派閥先行ではない。もの派だからものを並べておけばいいや、そんなことではない。観念ありきではなくてどこまでも貪欲なのである。中原は最新のアートの動向を十代から敏感に察知していたとどこかで評論家が書いていた。中原は流行を先取りし身を任せた。しかしそれに留まらない己の趣味を確固たるかたちで世に示すこともできた。稀有な作家というべきだろう。実見するまではコンセプトだけがおもしろくしかし作品自体に魅力はないだろうから、暗澹たる気持ちで会場を後にするかもしれないなどと勝手に想定していた。そんなことはなかった。作品はまったく古びていなかった。倉庫炎上以後に新作を作りなおしたことも寄与したと切り捨てることはできない。素晴らしい調和が展示スペースから見いだせた。あっぱれだ。