あいちトリエンナーレ2013


あいちトリエンナーレは、今年8月10日〜10月27日までの約2ヶ月愛知で開催されていた国際的なアートの祭典だ。前回は2010年に開催され、キュレーションは建畠晢(当時:国立国際美術館館長、現:埼玉県立近代美術館館長)が担当した。今回のキュレーターは、五十嵐太郎東北大学教授)だ。建築を専門とする五十嵐がキュレーションしたトリエンナーレとはどのようなものになるのか。ここに興味があった。結論から言うと、大成功だったのではないかと思う。

岡崎エリア
まずは『岡崎エリア』で辿った行程から。11時半に愛知到着。岡粼シビコ→松本町会場(松應寺)→康生会場→東岡崎駅会場。結論から言うと、岡崎エリアが相当素晴らしかった。岡崎シビコは街に根付くショッピングセンター。建物は古く見え、外から眺めてもここが国際的なアートの祭典の会場なのか「?」がよぎる。入り口でチケットを購入しエスカレーターで3階まで上がるも、そこから先のエスカレーターは存在するのに停止している。上階の空間は営業をやめているのか薄暗い。いよいよ怪しくなってくる。どこに迷い込んだのだ。店員さんにきくと階段を案内してもらえた。階段で5階へ。

すると早速暗い空間が広がっている。向井山朋子+ジャン・カルマンによる『FALLING』だ。あいちトリエンナーレすべての作品の中で一番心に残った。デパートの催事場であろうだだっ広い空間には、ところ狭しと丸まった新聞紙が散乱している。それは一群となり重ねた新聞紙と合わさり独特なフォルムを築いている。暗闇を照らすのは空間の壁際に置かれた複数台のライトで、ライトの1m程度前には扇風機が置かれ微弱な風を会場中心部に送っている。照明は扇風機に軽く遮られることで光のムラをつくり新聞の山を照らしている。新聞の山のあいだには壊れたピアノが置かれ、音楽にならない音を間断なく出している。暗闇で照らされる新聞は土砂をイメージさせる。トリエンナーレのテーマは「揺れる大地」。311、津波の去った後の土砂をいやがうえにも意識させずにはいられない。美しい。写実的な表現を取らずとも鑑賞者に過去の記憶を想起させ、しかし記憶に頼っているだけでもない。表現として屹立している。などと恍惚としていると音が止んだ。空間に来場者が7人ほど居たが、全員が動きを止める。沈黙。追悼の祈りが捧げられているようだと言っても差支えはないだろう。そんな間が15秒ほど続き、今度は「音楽」がなる。先程までの間断なき「音」をはうって変わった、構成された音楽だ。新聞紙のあいだに居て心動かされている鑑賞者と、そこに注がれる視線。空間が特殊になっている。「大地に立ち、あいだに生きる」鑑賞者と、その鑑賞者を壁を隔てた小窓から眼差す鑑賞者。この空間には二種類の鑑賞者が存在する。壁のむこうから椅子に腰掛け直立し心動かす鑑賞者を眺める鑑賞者は、愛知や東京に暮らす「部外者である」鑑賞者とみなすことが可能だ。この空間では両者を経験する流れとなっている。直立して場に身を委ねた後、遠くから再度見つめ返す。その場に生きる、そして、眼差す側へ。当事者性を揺るがす試みといえるだろう。荘厳な音色が支えている。圧巻。インタビューによれば、サミュエル・ベケットの戯曲「いざ、最悪の方へ」を題材にした作品であるという。分業ではなく照明のプログラミングをピアニストの向井山が手掛けたりもした。週末にはこの作品内で一般公募で選ばれた市民によるパフォーマンスが演じられたらしい。カルマンはボルタンスキーと越後妻有で共作がある。

階段を上がると、バシーア・マクールの展示。もう一階あがると、志賀理江子の「螺旋海岸」がある。どちらもそれぞれぐっとくる。特に志賀の作品は見るのがせんだいメディアテーク国立新美術館に続き三度目だということもあり、この会場ならではの見え方が面白かった。メイン部分に然程差は感じられないが、隣の部屋にもいくつか作品が進出し独特な空間の実現に成功していた。屋上の作品を体験し、外に出る。下衆な言い方をすれば、もうもとは取れた。芸術監督・五十嵐の意図も明快に伝わりそれが成功していると実感できた。ここからは気軽に歩を進めた。岡崎エリアは自転車で移動し、すべて見通すことができた。気になったのは地元住民と思われるお年寄りが多数会場で鑑賞していたこと。これは後に触れるが、このトリエンナーレの大きな意義となっているように見えた。

名古屋エリア
愛知県芸術センター、オアシス21、中央広小路ビル、名古屋市美術館、東陽倉庫、最後に長者町エリアを経て帰宅した。すべて観終わったのが17時半頃だったので、半日の強行スケジュールだった。