働いてみると懐があたたかくなりいつのまにかごっそり本を買ってしまう。買ったからにはどんどん読んでしまう。ひとりじめしてもいいのだけれど、せっかくならと公に読書記録を付けてみたい。まずは図書館で借りて読んだ本から。

私の愛、ナムジュン・パイク

私の愛、ナムジュン・パイク

ナムジュン・パイクの妻による手記。『不眠の森を駆け抜けて』のように独特の雰囲気が漂っている。でもこういう本の内輪感は、だからこそ価値があるとも言える。

岡倉天心 - 美と裏切り (中公叢書)

岡倉天心 - 美と裏切り (中公叢書)

岡倉天心は年始に松本清張岡倉天心 その内なる敵』を読んだところ。たまたま置いてあったので昨年刊のこの本を読んでみた。

目利きのひと白洲正子。「ひたすら確かなものがみたい」という思いに共感する。

ここからが購入して読んだ本だ。

SFを実現する 3Dプリンタの想像力 (講談社現代新書)

SFを実現する 3Dプリンタの想像力 (講談社現代新書)

チームラボの猪子さんとの対談

富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)

富岡製糸場と絹産業遺産群 (ベスト新書)


セラピスト

セラピスト

最相葉月さんの著書をちゃんと読むのはこれが初めて。帯に河合隼雄中井久夫の名前が大きく記載されており興味をもったが、そこまで大きくはクローズアップされていない。箱庭療法、・・など知らないことをたくさん知れたが、終わりは尻切れトンボ。
著者の「この私のつらさ受け止めて」みたいな私的な部分は要らなかったように思えた。でも、そういう人だからこそ、このような本を書くに至れたのかもしれない、とも思う。

武雄市の市長の本。

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)


うたのしくみ

うたのしくみ



ラインズ 線の文化史

ラインズ 線の文化史


河出の世界文学全集にはすでに収録されているが異なるのは多数収録されている写真だ。



浅田孝―つくらない建築家、日本初の都市プランナー―

浅田孝―つくらない建築家、日本初の都市プランナー―


ブルーシート

ブルーシート

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(下) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(下) (光文社古典新訳文庫)


美術展は、キトラ古墳展に行った。2時間半も並んだ。
建仁寺展(国立)、バルテュス展(東京都美術館)、桑原甲子雄展(世田谷美術館)、都築響一 独立老人スタイル展(ナディッフ)などに行った。


映画は、『8月の家族たち』、アスガー・ファルハディ監督『ある過去の行方』、ジェイソン・ライトマン監督『とらわれて夏』を観た。
シアター・イメージフォーラムジャック・タチ映画祭で『プレイタイム』。全編爆睡。キネカ大森で二本立て(『ブリングリング』『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』)。早稲田松竹で二本立て(『ムード・インディゴ』『ウォールフラワー』)。『ゴジラ』はついにアメリカで公開され爆発的なヒットになった。そういえば、『それでも夜は明ける』(12 years a slave)のスティーヴ・マックイーンの展覧会がルイ・ヴィトン表参道でやっていたのだけれど映像作品が一点あるのみで嫌気が差してしまった。映画とアートの絡みでいえば国立近代美術館で「映画をめぐる芸術展」がやっている。マルセル・ブロータースを軸にした展示でアンリ・サラ、やなぎみわらの映像が紹介されている。


レンタルでやっと『悪の法則』を観ることができた。カサヴェテスもレンタルを開始して、早速5本全部見てしまった(『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』『こわれゆく女』『アメリカの影』『フェイシズ』『オープニング・ナイト』)。

Coyote No.50 ◆ カサヴェテスへの旅

Coyote No.50 ◆ カサヴェテスへの旅

吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館

吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館

花子とアン

脚本 - 中園ミホ
音楽 - 梶浦由記
制作統括 - 加賀田透
プロデューサー - 須崎岳
演出 - 柳川強、松浦善之助、安達もじり
語り - 美輪明宏

第一週「花子と呼んでくりょう!」(3月31日 - 4月5日)
1話


2話
花子をなんとしても女学校に行かせたいという父・安東吉平(伊原剛志)。教会の本に目を輝かせる花子。キリスト教の教会に通う父に西洋かぶれだと噂する近所。父の親は小作農で生活が大変だったと妻・安東ふじ(室井滋)に漏らす。この話はいつも聞かされてきたのだった。小作料が上がって生活が苦しくなる花子の家計。夫婦の大変さをきいた花子は東京の学校には行かなくてもいいと言いだす。優しい子なのだ。教室には麦米ではない白米を弁当に入れてくる子もいる。花子は白い雲を見て白米を食べているところを想像するのだった。

3話
自分も東京の学校に行きたいと言い出す息子。しかしこの子はろくでもない成績だったから行かせる価値はなさそうだと父。ももちゃんの髪を引っ張ったのは木場家の朝市ではなかったと友人に教えてもらう。家の仕事を手伝う花子。大変だったので学校も休みがちに。あさいちは花子を訪ねる。「学校に来れないぐらい忙しいのかい?」勘違いを謝る花子。花子は徳丸家の武の父・徳丸甚之介(カンニング竹山)に奉公を願い出る。妻は奉公をやめさせるようお願いに行くが認められず花子、学校を退学。花は朝市に連れられて夜こっそり教会で本を読む。見つかり逃げるときに二人して池に落ちてしまう!

4話
池に落ちからがら帰ってきたはな。奉公に行く当日、奉公人に女はいらないと言われ米俵を持って行かれそうになる。隣にいた兄が俺が行くといいだす。父に好かれていない自分が行くべきだ、冬が越せるというのだ。はなは池に落ちたことで風邪をひいていた。悪夢にうなされ、妖怪がでてくる。想像力はいいことばかりではないと教えてくれた。父もやっと帰宅して、生きろ生きろという。はなは筆を持ち紙にしたためる。「辞世のうたじゃ!」と大喜びの父。祖父と母も寄り添う。はなは顔が真っ赤で「今までお世話になりやした。ありがとうございました」と言ってぶっ倒れる。ここで父気づく。医者に診せてないじゃねーか!

5話
はなは「花子」を名乗りだす。自分の名前は自分で変えるもんだといい、祖父にも勧める。祖父も名前を変えてみれば違う人間になった気分になれるとの提案だった。牧師がやってきてはなは女学校に行かない方がいいと申告。なぜなら女学校には富裕層の子弟しかいないから。そんなところに貧乏階級のはなが放り込まれたら辛い思いをしてしまう。祖父もそうだそうだという。はなも行きたくねえと言う。牧師が帰った夜にふじは、自分は本を読めないけど本を読んでいるはなの顔が好きだという。本を読まない時より、読んでいる時のほうが顔がいきいきしているというのだ。嬉しそうに本を開いたはな。

映画鑑賞3

①『ファーゴ』(コーエン兄弟、1996年)★★★★★☆
バーン・アフター・リーディング』を観たすぐに観たものだからずいぶん似ているなあと思った。コーエン兄弟は二作目だが、だいたいこういう作風なのかもしれない。おもしろいから大歓迎だ。いつまでも見ていられる。ラストを妻と夫の日常的な幸福で終わらせたのは非日常的なスペクタクルと対比してのことだろう。コーエン兄弟はこの非日常的な、何かのはずみでいくところまでいってしまった世界を撮るのがうまい。本当はどちらのありようにシンパシーを感じているのだろうか。ストーリーは、主人公の男が金が必要になるも義父は金持ちなのに金を貸してくれない。どこで妻を誘拐させ身代金を義父に払わせ誘拐犯と山分けしようと考えた。自分が部長を務める車屋の後輩社員に紹介させ二人組に仕事を依頼。新車を先に渡し報酬は身代金が手に入ってからということになった。妻を誘拐したはいいものの逃走中に警官を射殺(しつこく免許証を要求してくるから)、殺害現場を目撃したカップルも撃ち殺す。警察が動き出し、犯人が車屋に電話(後輩社員に)していたことが判明。お店に警官がやってくる。主人公が身代金を持って行くことに義父は反対、自分が持っていくが誘拐犯に殺される。誘拐犯は顔に銃弾をくらう。雪道に身代金の大半を埋め相棒のもとにいく。少額の身代金を渡し車は自分が持っていく、なにせ身代金取引の過程で銃弾まで負ったのだからというも、あえなく射殺される。警官は車屋に再びくる。主人公は車の数を数えにいくと言い残し逃亡。雪山で警官は誘拐犯を目撃。相棒をミンチにしているところだった。足を撃ったあと、捕まえる。主人公もついにとっ捕まった。めくるめく展開は飽きない。ジョエル・コーエンの妻、フランシス・マクドーマンドがうまく『バーン・アフター・リーディング』とおなじで彼女が登場しただけでわくわくする。

②『恋人たちの予感』(ロブ・ライナー、1989年)★★★★☆☆
アメリカでは7月、日本では12月23日に公開されたそうだ。クリスマスが初めて素敵な日だと思えた気がした。ロブ・ライナーは『ミザリー』や『スタンド・バイ・ミー』の監督。役者としては『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でジョーダン・ベルフォート(デカプリオ)の父親を演じていた。ざっと観ただけでもなんだかとても深く余韻の残る映画。主演はビル・クリスタルとメグ・ライアン。二人が付かず離れずの11年間を過ごし、付き合って3ヶ月で結婚する話。脚本はのちに『ユー・ガット・メール』を監督するノーラ・エフロン。あいだに関係ない老人の結婚秘話を織り交ぜながら映画は進む。ビリー・クリスタル演じるハリー・バーンズは男と女に友情はないと言い切る。だから親友の恋人だったサリー・オルブライト(メグ・ライアン)に車中で手を出しそうになった。そこでサリーは断るわけだが、こうして二人は出会った。その後数年おきに再開する二人。しかし他愛ない話を繰り返すばかりで取り立てて何も進展しない。お互い相手のかなりディープな恋の相談にも乗り合う。セックスのことも屈託なく話す。そんなうちにサリーは大失恋を経験し、ハリーと一夜を過ごしてしまう。お互いのかつての恋人はいまでは結婚したのだけど、その二人も応援してくれる。そこでは折り合いがつかず付き合うには至らなかったがその翌年のクリスマスで再会。ついに結婚するのだった。このクリスマスでのハリーのプロポーズがかっこいい。そこまではグダグダでじょじょに恋仲が深まっていく様子がうまく表されていたがラストで引き締まった。それに対するサリーの応答も素敵で、華やかではないもののいい映画だったとおもう。

③『メメント』(クリストファー・ノーラン、2000年)
98年に『フォロウィング』で監督デビューしたノーランの二作目。今年は『トランセンデンス』と『インターステラー』の公開が控えている。

④『未来は今』(コーエン兄弟、1994年)★★★★☆☆
コーエン兄弟は『バーン・アフター・リーディング』『ファーゴ』に続き三本目の鑑賞。『ショーシャンクの空に』のティム・ロビンスが主演。悪役にポール・ニューマンが配されている。脚本にはサム・ライミも参加。上り調子だった会社だったが飛び降り自殺をしてしまった社長の後任として大学卒業しばかりの・・が社長として迎えられる。決して・・の才覚を見込んでのことではなく使えないからこそよいという判断だった。見込み通り無能っぷりを発揮、新聞には能なしだと書かれる始末。ピューリッツァー賞を獲ったほどの新聞記者もスパイとして乗り込んでくる。そのうちにずっとあたためてきたアイデアのフラフープが大当たり。会社はかつてないほどの利益を叩き出す。だがそんな急成長を快く思わない面々によって・・は落ちぶれていく。ついには死にかけるが時計台を見守っていた・・が時間を止めて、そこに亡くなった先代の社長が登場。実は・・が配るはずで配れなかった・・には次の社長に株式を譲ると書かれていたのだった。・・は社長に復帰し、今度はフリスビーを開発。というストーリーで作品としての面白さを特筆はできないけれど、飽きずに最後まで観れた。なにより飽きさせないことを常に実現できているコーエン兄弟はすごいと思う。やはり映画は飽きさせてはならない、とどこかで考える自分がいる。やはり・・が◯を書いたスケッチをいつも持ち歩いており最初はポカンとするしかなかったのが、フラフープ、そしてフリスビーとつなげていったのは面白かった。一言添えれば、誰が・・を擁護して誰が・・に批判的なのかがよりクリアに示されていればなおのこと面白かったのにとは思う。スパイできた女性新聞記者の気持ちの動きも分かりにくかった。窓ガラスが割れて先代の社長が死に、そのあと飛び降りようと走った・・が強化ガラスで落ちれないみたいなテンドン的展開もスタンダードでよい。

⑤『ノーカントリー』(コーエン兄弟、2007年)★★★★☆☆
原題は「No country for Old Men」。トレーラーハウスに住むルゥエリン・モス(ジョシュ・ブローリン)が殺人現場を発見。そこには麻薬とトランクに入ったお金があった。水を欲しがった生き残りに一旦は何もくれてやらなかったものの夜に戻って施してやる優しい一面もあるモスだが、現場に再び来ていたギャングに顔が割れてしまい、攻撃されるはめに(ここで川に逃げ込んだモスを犬が追うのだがここがコーエン兄弟らしい。普通は川で必死に隠れようとするモスとギャングの対比にするところを犬を加える事でより複雑化する)。妻を逃して自分も逃げる。だが、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)はどこまでも付きまとう。筒みたいなサイレンサーや、屠畜銃(空気砲)で無容赦に人を殺す。怯えながら、撃たれながら、それでもモスは逃げていく。妻に危害が加わる可能性を知ったモスは自分のところに呼び寄せようとするもあえなく殺されてしまう。妻に会いに行ったシガー。トミー・リー・ジョーンズ演じるベル保安官が何やら語りながら映画は終わる。とにかくハビエル・バルデムの演技がすごい。彼はアカデミー助演男優賞を受賞したわけだが、それだけの見事な演技。おっとろしいとはこのことだ。しかも普通の銃じゃないからなおのこと怖い。上にも書いたように、空気砲で道行く運転手の頭にぶち込んだりする。筒の銃も怖すぎる。主役のブローリンはマシュー・マコノヒーみたいなカーボーイみたいなやつ。ベトナムから帰還した元兵士。そんな息も切らせぬ展開に夢中にならざるを得ない。途中で呆気無くモスが殺されたのには驚いた。モスはシガーに追われながら血だらけになり歩いていた子供から服を恵んでもらった(買ったけど)わけだが、シガーもいきなり道の真中で追突されて同じ子供に服を貰ったのには笑えた。まったくちがう人間に見えた二人なのに、それをシガーの人間っぽさへの退行としてではなく見せた手腕がうまかった。ラストはよく理解できなかったが、面白いのはまちがいない。ただ、『バーン・アフター・リーディング』『ファーゴ』のようなよりあっけらかんとした救いのない悲惨さのほうが好きではある。

⑥『恋はデジャ・ブ』(ハロルド・ライミス、1993年)★★★★☆☆
最近亡くなったハロルド・ライミス監督の作品。ビル・マーレイ出演作は『ロスト・イン・トランスレーション』『天才マックスの世界』と観てきて本作も確かによかった。いたいけに頑張る役柄としてハマっていたからだ。さっき読んだ記事でも紹介されており観てみたわけだ。ビル・マーレイ演じる男はまともな天気予報士だったのだが、出張先のベッドで目を覚ましてみるとまた同じ日が繰り返してしまった。おかしいと思うもののまた同じ日が繰り返す始末。やけを起こした主人公は、日々積み重なる記憶を頼りに大胆な行動を取るようになる。平気で知らない人に話しかけたり、慎重な扱いをしていた友人を少し適当に扱ってみたり。前日の反省を次の日(同じ日なのだが)に改善して日々レベルアップしていく。そうしてついには同僚で気になっていた女性を口説くことに成功。翌朝目が覚めると次の日になっていた。そういう話である。アイデアが面白い。一日をまるまる繰り返す演出はもちろんしないけれど、映像の切り方、繰り返し方がうまい。また、ラスト近くのダンスホールのシーンで主人公がみんなに好かれているのもなんだか嬉しい(腰痛が治ったのは貴方のおかげだとか褒められている)。落札もいろんな人が手を上げた挙句、好きだった女性が破格の値段で落札するその感じも嬉しいものだ。どうしたって自分に引きつけてみてしまう。今日が改善の余地ある繰り返しの一日ならば?と考えてみずにはいられない。ピアノだって始められるじゃないか、くよくよしている場合じゃねーぞと喜ばせてもらった。

⑦『さよなら渓谷』(大森立嗣、2013年)★★☆☆☆☆
邦画ってなんでこうなんだろーな。作りこまれていてそれなりに切実なのは分かるんだけど土台がなんかちがうって感じだ。こういう新潮45に載ってそうなルポルタージュをそれっぽい映画に仕上げてそういうのを読むおっさんとかほろりと泣きたい女とか観客にしても仕方ねーんじゃないかと思ってしまう。少なくとも『そして父になる』や『共喰い』もそういう話だったわけだけどそれらと比べると倫理的な処理が甘いというか、自分は耐えられなかった。二点にしたのは真木よう子の頑張りっぷりに。ストーリーを簡単に言うと、ある女が子供を殺した。捜査が始まっていたところに尾崎俊介大西信満)が共犯であると通報があり、通報したのは同居している尾崎かなこ(真木よう子)だった。週刊誌の記者である渡辺一彦(大森南朋)は調査に乗り出し、鈴木杏と共に俊介がかなこを16年前にレイプしていたと割り出す。集団レイプにあったかなこはなぜいま俊介と同居しているのか。そこに存在するのはどのような愛なのか。それがこの映画だ。正直、こんな愛のかたちなんてこれまでにさんざん描かれてきた類のセンセーショナルな分かりやすい困難な愛であり、そんなものはちっとも見たくない。でもどうしたってこういう愛の描き方は続いていくんだと思う。大盛立嗣、園子温青山真治的なものと、是枝裕和的なものと分けてもいいかもしれない。ようは根っこのところの題材はおなじでその調理の仕方に彩りがあるだけなんだが、映画の醍醐味はその土台のとんでもなさにあるんではないのか。こういうのを突きつけられるとグザビィエ・ドランがどうのこうのと腐すのもばからしくなる。腹がたったのはラストで、大森南朋が夫にきくのだ。「レイプをしてかなこに出会えていたのと、レイプをせずかなこに出会えていなかったのとどちらがよかった?」そんなクソもくだらねえこときいてんじゃねーよ。『その男、凶暴につき』と同じような女性蔑視というか性の手つきの適当さを感じた。もう少しまじめくさらずだけどセンシティブで切実な今どきの映画は撮れないものなんだろーか。

⑧『スノーピアサー』(ポン・ジュノ、2013年)★☆☆☆☆☆
いやいやいやいやいやいやいや。これはきつかったすわー。完膚なきまでにつまんなかった。列車が雪山を走っていてかれこれ18年走っていると。そのあいだ列車にいる人らは外に出ずに、後方に貧困層、前方に富裕層がそれぞれ棲み分けて生きてきたと。支配されている貧困層がなんとかして前方を目指していく、そういうストーリーなわけです。予告編でもそれで盛り上げるもんだからyoutubeでそれだけ見ていくと心ウキウキで見に行くわけですよ。でもアクションはつまんないし、映像が美しくない。列車を前に進むにつれていろんな部屋があるのはまま面白いんだけど、造形としての魅力が皆無。ティム・バートンに撮らせたら夢の様な世界になったんではないかなんて考えてしまう始末。あとずっと話が暗い。韓国映画に独特の吹き上がる情念のようなダイナミックさと結託した暗さならいざ知らず、今作に限ってはダメな方にでてしまったなと。あと構図がよくわかんない。前方にみんなで攻め込んで何がしたいの?首を獲って貧困層でも豊かに暮らせるようにしたいのか、と言うとそうでもないらしい。ソン・ガンホは急に列車の外に出ようと横に付いてる扉を開けたがるし。視線があっちゃこっちゃいってしまう。先頭にいくとエンジンと開発者、そして秘書みたいなんがいるんだけど、富裕層のくせに生活がちっとも楽しそうじゃない。こんなちんけな数十人が生き残った世界(列車)のなかでしょうもない縄張り争いしてんなよと言いたくなった。99:1みたいな構図(『エリジウム』みたいな)に魅力を感じたのかもしれないけど、テーマがごちゃごちゃしているからどこにも入り込めなくって最後まで置いてきぼりだった。なんで18年も先頭にいくのが成功しなかったのか。どういう葛藤があったのか。メシはどうやって調達してんのさ?(まずそうなステーキむしゃむしゃ食べてたけど)先頭にいた男はどんな野心があったのか。もう少し説明して鑑賞者を浮足立たせてもいいと思う。あと、列車が最後には雪崩に巻き込まれて大破するわけだけど、ちんまい世界でごちゃごちゃやってきたのにラストまでそうやって意味不明にするのか?助けたかった貧困層の殆どはこれで死ぬわけだけど、先頭への突入を成し遂げた喜びはどうやって分かち合ってそうやって鑑賞者はカタルシスを得ればいいのか。ストーリーがあいまいすぎるとおもう。最後外に出た親子が雪山でシロクマ見て終わりってそりゃねーよ。

⑨『青春の殺人者』(長谷川和彦、1976年)★★★★★★
素晴らしすぎた。しかも、この監督はこれ以上の作品を以後作っていくにちがいないという確信を得られてしまうから、尚のこと恐ろしい。つまり全力を出し切って作った感じがしないのだ。もちろん心血注いだろう。でももっとすごいことをやってのけるその原点を見る思いのする作品だった。現にこの後『太陽を盗んだ男』を見事監督するのだが。そして沈黙してしまうのだが。この輝かしい日本映画において重要なことをまず言うのであればそれは原田美枝子だろう。あまりにも美しい。あどけない表情、溢れる乳房。おっぱいが美しすぎる。黒髪も似合っていてそれだけで星は六つだ。主演は水谷豊。『相棒』の彼しか知らなかったのだが熱演だった。両親を思いがけなく殺してしまいそうな妖しく危なっかしい雰囲気のある22歳に見えた。ストーリーは、順(水谷豊)が自宅に帰ったところから始まる。順が付き合っていたケイ子(原田美枝子)のことを両親はよく思っていなかった。順はバーを経営しておりケイ子はそこで働いていた。順にまとわりつくケイ子を蛇呼ばわりする始末。父(内田良平)はケイ子が子供の頃母の彼氏の手篭めにされたと言い出す。それを聞いた順は怒り父を殺害。それを見て順をかばおうとした母(市原悦子)。ナイフを持ち口論になり挙句こちらも殺害。順はバーに向かう。店を閉めさせ二人で逃亡することに。ケイ子の実家に寄り、死体を積み込んで車を走らせる。池に捨てたあと、警察の質問もかいくぐり海へ。うまく逃げれるように思えたもののもう一度バーに戻りたくなった順。ケイ子を外においてガソリンを店に撒き自分は天井に紐で手を縛って自殺を試みる。ケイ子の声のなか燃え盛っていたが命からが外に飛び出す。ケイ子は探すが順は見つからない。順はトラックに乗り込みどこかへ向かうのだった。印象的なシーンがある。警察の尋問を受け、普通は何もおかしいところがないように振る舞うところを、順は親を殺したと言う。しかし警察は取り合わない。つまらないことを言うなという。ここで順は「権力は俺を捕えないのか」というのだ。うしろにデモの声を響かせながら。デモの声をうまく劇中に取り入れられているだけで感動ものだが、この警察との批評的な対話は魅力的だ。映像のコントラストも見事で、炎の燃え盛る様子と夜の闇、この明と暗の対比がうまく使われている。映画はここまでやれると教えてくれた作品だった。

⑩『凶悪』(白石和彌、2013年)★★★★☆☆
『さよなら渓谷』のところで新潮45っぽいものが原作の映画という括りをしたけれど、本作はまさに新潮45ルポルタージュを原作にしている。連続殺人犯の男(ピエール瀧)が死刑を前にしてしゃばでの先生(リリー・フランキー)を共犯として訴える話。訴える相手は雑誌の記者(山田孝之)で、当初は誰も信じていないが熱心に取材し記事にしていくことでデスクはじめ世間にも知られ、ついに先生は法廷に引っぱり出されるまでになる。この熱心な取材が厄介で、ピエール瀧とリリーによる残虐な仕打ち(保険金殺人で老人に鞭打つところ)のシーンが結構長い。この映画の大部分はこの仕打ちに使われている。ヤクザな世界の描き方はいたって普通だから、少しダレた。だがラスト15分はかなり面白い。あれだけピエール瀧とその先生(映画の冒頭付近ではなかなか姿を表さない)の異常性を強調したあとで、山田孝之の異常性に視点が移るのだ。それはラストのリリーの名演技(アカデミー賞助演男優賞を受賞したのが大いに分かるし、現在の日本の俳優の中で最もうまいんではないか)において分かりやすく突きつけられる。俺を一番殺したかったのはピエール瀧でも他の誰でもなくお前だろうと。お前の部分は発言ではなく対面しているあいだの硝子をコツコツ叩くことで表現。これがよかった。この発言のあと硝子には一人残された山田孝之の顔が映りこみ、観客はどうしたって山田孝之の心理を推察する状況に持ち込まれる。そのままキャメラ山田孝之を真ん中に捉えたまま引き下がり、エンドロール。余計なシーンを入れず潔よい。ほかに興味深かったことで言うと山田孝之の家庭。精神を病んだ母親と池脇千鶴演じる妻と三人暮らし。池脇千鶴がいい。母の世話を一手に担わねばならず、山田孝之を責め立てるのだ。雑誌に山田のレポートが載るとなおいっそう責める。保険金目的で老人をいたぶったリリー&ピエール瀧山田孝之が交差する瞬間である。濃いルポルタージュの映画化という最も日本で得意とされ陳腐化している手法に少し手が加わったことで、考えるための余韻が生まれたのだった。

⑪『ハンガー』(スティーブン・マックイーン)★★★★★☆



⑫『アデル、ブルーは熱い色』(アブデラティフ・ケシシュ★★★★★★
アデル、ブルーは熱い色レズビアンの恋愛がつまびらかになっており、それを端的に興味本位に受け取ることも可能。まずそこが驚くべきことになっている。監督の意図として下品な映像になっていないから、深く読み取る気持ちにもなる。主人公は思春期に性の揺らぎがあった。というか、男性のことが好きだったのだろうが青髪が横を通ったことで一変してしまう。壮麗な同級生への愛に疑問を抱いてしまい、別れを切り出す。“偶然”ゲイバーで再び出会ったエマはその後学校へも迎えに来る。まわりの学生に囃される。しかし二人は愛欲に溺れる。それぞれを求める。スティーブン・マックイーンで慣れっこにはなっていたが、モザイクが剥がされればむきだしのセックスが展開されている。ペニスを介さないセックス。この描写をしきったことでもっても見る価値はあるだろう。ただ、このセックスはどこかみすぼらしい。二人とも美しい肉体というわけではない。どこか素朴でありふれた身体の持ち主なのだ。だからか、欲情はしない。展開する熱いセックスをただ見守るだけ。スティーブン・マックイーンの美しさの拘りと対比したくなる。あちらはいくら牢獄の壁に食品と便を塗りたくろうと、白人に黒人が鞭打たれようと尊厳と言う美名があった。こちらにはただのそれだけでしかない身体しかない。それがもつれ合う。青い髪のエマは美術学生のステレオタイプともいうべき破天荒さでそれを受け入れるのが当然のような振る舞いをする。ただ、アデルの家に招かれた彼女は、父親の質問に彼氏がいると答える。父親はいかにもサラリーマンというべき内実を求めるが、エマはそれに従う。絵を描くなどという不安定な職だけ貫こうとしてるわけではない。安定した彼氏がいるのだと。アデルは驚いただろう。自分を曲げるところをみてこなかったはずだから。安定あっての不安定を求めると宣言したエマに対してアデルにも夢があった。幼稚園の教師になること。アデルは教師に、エマは金髪の画家になっていた。二人とも夢を叶えたはずなのにアデルは暗く、エマはにこやかだ。アデルはパーティーのために料理を拵え準備をいってに引き受けている。エマは何もしない。使うだけ。暗い顔のアデルはいちゃつくエマを見ながらさみし気で、夜にはエマを求めた。エマは反応しなかった。アデルはこれまで断ってきた幼稚園の同僚の誘いに乗る。非日常のノンケの世界のバーでダンスをしながらキスを交わす。自宅に帰ってきたアデルにエマが問う。いま、車でキスをしていた男は誰だ。あの男のペニスを咥えた口で私とキスをしていたのかと。出てゆけ、アデル!アデルはエマを失った喪失感に打ちひしがれる。幼稚園のお遊戯会のあとも独りの部屋で泣き凹む。エマを呼び出したアデルは、いまだ気持ちが離れていないと告げる。求めていると積極的に示し、一時はレストランの店内でもつれ合う。しかしエマにその気はない。出て行くエマ。追えないアデル。久しぶりに招待状がとどきエマの個展にいくと(真っ青なドレス!)アデルがモデルとして描かれた絵画が大きく構えていた。妊婦の時から付き合い始めた女がモデルのものもある。二人は今付き合っているのだから。かつてのパーティーで話しかけてきたアクション俳優は今では不動産業をしていた。アデルはギャラリーを後にする。不動産業の男は俳優として名指されるとその気になっている。さっきまで映画界はコネだのなんなので腐り切っていると言ってた舌の根の乾かぬうちに。アデルの夢は幼稚園の教師だった。エマはそれはあなたのやるべきことじゃない、あなたは言葉を発表すべきと言っていた。だがアデルはエマと同じように夢を実したのだ。世間的な野心の度合いはちがったとしても。アデルは吹っ切れただろう。具体的にきっかけがあったわけではない。おそらく元妊婦とのいちゃいちゃかもしれない。でもそれだけが決定打ではないだろう。積もり積もったものがアデルを踏み出させた。男と付き合いエマただ一人の女を経験して再び男に戻ったアデル。思春期の揺らぎの後素直に突き進むままに恋愛を重ね落ちつかないものの見方を得たアデル。
・素直な変遷(男女男)、そのあとはどうなるかわからんという曖昧さを残したのがよかった。ドランの押し付けがましさと比べるとより自然で、信じすぎてもいけないがクソつまらないステレオタイプの届かないようなレズ描写でぐっときた。
・スティーブンマックイーンのような美しく酷使される身体というよりもだらしなさがあってより日常だと思った。鼻水はダラダラでるしはっきり泣かないし(微妙な泣きが結構ある)、エマは独特なレズっぽさでその普通っぷりがよかった。
・普通のサウンドデモと地続きにLGBTデモがあってその地続き感がうらやましかった。
・エマが孤高なのに可愛い嘘をつくところがよかった(アデルのために)。
・エマがアデルを責め立てるのがよかった。エマでさえ決して成功してるとは言えない(でもあのギャラリーで個展したから成功したのか?)のにアデルの成功を勝手に規定するあたりがタチっぽかった。セックスはだんだん男女みたいになったが、どう見ればよいのか。想像力の貧困?型?原始そうであった?
・授業での朗読の効果はよくわかんなかった。
・おっぱいは二人ともでかい。

ローン・サバイバー



大統領の陰謀』(アラン・J・パクラ、1976年)



ソフィーの選択』(アラン・J・パクラ、1982年)




パンズ・ラビリンス』(ギレルモ・デル・トロ



⑯『ザ・マスター』(ポール・トーマス・アンダーソン、2012年)
昨年映画館で観たが再び鑑賞。


パルプ・フィクション』(クエンティン・タランティーノ、1994年)


『ベニスに死す』(ルキノ・ヴィスコンティ、1971年)

若者のすべて』(ルキノ・ヴィスコンティ

ブエノスアイレス』(ウォン・カーウァイ

死霊のはらわた』(サム・ライミ

トラフィック


メランコリア』(ラース・フォン・トリアー、2011年)


『マダムと女房』(五所平之助、1931年)

ヴァージン・スーサイズ』(ソフィア・コッポラ、2000年)

こまどり姉妹がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』(片岡英子、2009年)

3月 日記

3月26日
河野至恩さんの初単著。重要なポイントを言うと「どんな人間が受容してもいいし、それをどんな枠組みで語ってもいい」ということだ。著者が繰り返して強調するのは、例えば村上春樹の英語訳は日本語の原本と同じくらい価値があるということができるしいつかは英語訳こそが原典と言われる可能性である。日本のアカデミアではその言語が堪能にできないと教じてはならないよいうような風潮があるがそうではないと。・・が柄谷行人の英語訳の序文を読んで・・を書いたが、日本語を十分に出来たとはいえない。十分に出来ずとも資料をそれなりに集めれば、その人の立場での論じ方ができる。海外の大学院生などは複数語を自在に操り、その言語環境の中でおもしろく考えてみることができてくる。
世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)

3月27日
 『レゴムービー』『LIFE!』『アナと雪の女王』(吹替)を連続で観た。松たか子と神田沙也加の歌声のよさもわかったのだが(一回目は字幕で観た)なにより映像の美しさに再び息をのんだ。一回目には細かい描写で魅力的に思うものが強調され記憶に残ったが全体を俯瞰して観れた今回は、作品自体に漂う雰囲気をより享受することができた(肌のきめ細やかさがすごい)。
 書店では柳下毅一郎さんの「皆殺し通信」の巻末の松江哲明さんとの対談がおもしろかった。矢野顕子主題歌問題。見たくなった作品が数本出てきた。松本人志の一本目を褒めてた人をえらいという発言なんかはフェアな精神を表していた。ほかにはバルガス=リョサマルケスの対談本を立ち読みした。美術手帖村上隆、中原浩大、ヤノベケンジの鼎談を読んだ。実質的に村上とコーディネートをした楠見清のバトルだった。文字量もこの二人で9割だ。楠見の音楽の例えを村上が攻撃した箇所は首肯した。たしかに他分野を類似例として持ちだしても当人は気持ちいかもしれないが有益に歴史化されはしないから。
 帰宅後、フィギュアスケートの録画を観る。浅田真央さんがすごい。ショート・プログラムの世界最高得点らしい。コストナー選手、リプニツカヤ選手、アシュリー・ワグナー選手の部分はすべて観た。フリーも楽しみだ。「笑っていいとも!」の小泉今日子のテレフォンショッキング。どうでもいい話だった。この一週間の人選から考えられることはおおい。明日は黒柳徹子だという。「とんねるずのみなさんのおかげでした」のタモリとレギュラー陣の食わず嫌い王まで見てしまう。風呂でコンラッドの『ロードジム』を読み出す。


3月28日
 もったいないからちびちび見ていた第86回アカデミー賞の授賞式を観終わった。一時間がレッドカーペット、残りの一時間半が授賞式に当てられていた。ジャレド・レトのスピーチには感動したし、「Let it go」の歌唱っぷり(絶叫に近かった)は歌詞に忠実で感動した。ジェニファー・ローレンスのスピーチとヤンキーみたいな発言にはハラハラしたし(だからこそ可愛い)、マシュー・マコノヒーが受賞が発表されてすぐにデカプリオとハグしていたのもよかった。ケイト・ブランシェットは高飛車な女というかちょっとイッちゃってる感じが良かった(スピーチかなり長い)。プレゼンターとしてはデ・ニーロまで出てくる。なんといっても司会を担当した・・の洒脱さもよかった。ピザを頼んだり(しかも・・に金を払わせようとする)、ジョナ・ヒルのチンコは久しぶりだったとか。
 岩波書店のサイトで限定公開されている音源を聞き終えた。
 台湾がどうなっているのかイマイチわからない。内田樹のブログに転載されている教育学の佐藤学氏のレポートを読んでみたりしているのだけど。
 じぇれみーあぼっと
 アンリアレイジの2014a/w。雨の雫が舞う中、光る蛍光色のブロックの上に織りなす三人のモデル。顔にはなんかくっついている。床は蛍光だが服が光っているわけはなさそうだ。服よりもむしろ顔に目線がゆく。赤い系統の服が多い。スカートはチェック。赤地に黄色の刺繍が施されたワンピースが可愛い。ナイロン地のコート。首をオレンジ色のネックウォーマーが覆う。スタッズが付いたコート。
途中上からライトが降りてくる挟まれたライトによって赤のつぎはぎの服が照らされる。素材がよく見える。素材が開き出す。ぷっくらと穴が膨らむのだ。地肌が見えてくる。赤の布と肌色の地肌のコントラスト。横から見れば見えるが挟んだライトが邪魔で縦に座った客には見えてこない。開ききるとライトは上にあがっていく。すべての方向から佇む少女を眼差せる。顔にくっついたものも赤色、ソックスも赤、全身赤だ。床は白と水色の光のタイル。後方青と緑の服のモデルがくるが赤色動じず、真ん中に陣取る。青色軍団去ると赤も合わせて去っていく。音楽はピアノのズンズンした音。森永は白でひょっこり登場。

新作 3月

LEGO ムービー』(フィル・ロードクリストファー・ミラー、2014年)★★★★★☆
Warner Bros. Pictures
Starring: Alison Brie, Amanda Farinos, Anthony Daniels, Charlie Day, Chris Pratt, Craig Berry, David Burrows, Elizabeth Banks, Keith Ferguson, Liam Neeson, Morgan Freeman, Nick Offerman, Will Arnett, Will Ferrell
Summary: An ordinary LEGO minifigure, mistakenly thought to be the extraordinary MasterBuilder, is recruited to join a quest to stop an evil LEGO tyrant from gluing the universe together.

一ヶ月前ぐらいに英語のツイッターで軒並み話題になっておりずっと楽しみにしていたのが本作。すごく面白かった。なにが面白かったかといえば、ストーリーがハチャメチャなのにそれをしっかり構成として回収できたことにだ。この映画はスピード感があって次から次に物事が展開する。その展開の仕方もふつうな感じではなくて入れなくてもいいちゃちゃが入ったりして思うようには進んでくれない。それはまるでレゴを遊ぶ子供の脳みそのような構成だった。ご多分に漏れず私もレゴを遊ぶ子供だったけどレゴの遊びとは誰かに分かってもらうための遊びではなかった。公表の必要性のない、つまり自分さえ納得すれば何でも有りの遊びだったのだ。レゴはただ建物や道具や乗り物を作るのではなくっていつのまにか物語が付随してしまうブロック遊びだ。何かをつくれば自然とそこから物語を派生させてしまう。そして物語が進んでいても作りたいものができれば途中で作ってしまうし、物語に関与していた完成品のブロックも他に必要になれば崩してバラバラにしてしまう。だれに見せる必要もなく自分の脳内の物語につながりがありさえすればそれですべてはよかったのだ。この映画のストーリーもまさしくそれだと思った。もちろん映画だから観客はいるにちがいないのだけれど作りは完全にレゴの世界で遊びまわる子供の脳内だったのだ。そしてこれだけでもう満足していたらこんなもんではなかったのだ。ちゃんと回収するプロットが用意されていた。本当に物語は子供の脳内の出来事だったのだ。父親が完璧な世界観でブロックの容量用法を逸脱なく使っていた。地下でこっそり遊んでいたのだろうブロックのまわりには「触れてはいけない」だとか「近寄らないで」など壊されないための注意に溢れていた。そんな父の遊び場に足を踏み入れた息子が勝手に弄って自分の世界に変えてしまった。だからこの映画の世界にはバットマンもスーパーマンも出てくるし、ウディ・アレンダンブルドアロード・オブ・ザ・リングのひげもじゃも出てくる。脳内だからなんでもありなのだ。これでノックアウトされた。子供が遊んでいるように映画を作るというただそれだけでもよかったのに、ちゃんとその構造を現実の人間の映像を踏まえることで可視化し(終盤になるまでレゴのみで話は進んでいくのだ)意味づけたのだ。父親は自分の世界を崩す息子を窘める。それはレゴの世界においてスパボンによって関係性を固めてしまおうとする敵役のように。ただ息子はそれを嫌がった。関係性を固めたくなかった。何かがいつほかの何かに変化するのかもわからないのだから。それこそレゴの面白さなのだから。最後になって父は気づく息子の言い分に。そしてタコスデイを迎える。これは現代版『メリー・ポピンズ』だ。『メリー・ポピンズ』は子供の映画と見せかけて一緒に見に行きていた両親にメッセージを伝える映画だった。固くとらわれていた父親をただバッシングするだけでなく、父の辛さも代弁しながら自由への解放を奨励する映画だったのだ。本作もまさしくそうで、父親たちは自分がかつてレゴによって見出していた遊びの果てなき自由さを追体験しながらその魅力に気づき、自分の教育を思い返していただろう。大人になるということは自分の成果物がさらされるということと同義である。成果を社会に晒して対価を得て報酬で暮らす。子供はその必要がない。自分さえよければいい自由さと気楽さがある。何かを得て何かを失ったものが、かつての自分と共にかつての脳内を追体験して現在の自分にフィードバックさせることもできる、レゴにしか作れないレゴ映画だったのだ。

『LIFE!』(ベン・スティラー、2013年)★★★★☆☆
「The Secret Life of Walter Mitty」が原題の本作は、監督ベン・スティラーが主役も務めている。長身ではなく顔もそこまでかっこいいわけではないから画面映えはしないがリアリティがある。そう、この映画は緻密なリアリティゆえに最後に喜びのある映画なのだ。写真誌「LIFE」の紙版が終刊することになりリストラ要員として上司が派遣されてきた。主人公ウォルターは現像部に配属しており、写真家ショーンから送られてきた最終号の表紙のネガを現像せねばならなかった。しかしネガ(25番目の写真)が見つからない。ショーンは携帯電話も持参せず世界中を飛び回っていた。一刻も早く写真を受け取るためショーンの足取りを探し彼のもとへいくことに。グリーンランドから旅は始まるが、いきなりショーンが写真に撮っていた親指と出会い、意を決してヘリコプターに乗り込む。舟から海に飛び降りたり、スケボーで荒野を走ったり闇雲に追いかける。一旦アメリカの自宅に戻り家族(母と妹)にこのことを告げると実はショーンが自宅を訪ねてきていたことが判明する。ネガの一枚と自宅の机の足が一致したのだ。母親によるとショーンはアフガニスタンにいることがわかる。エベレストに登頂しついにショーンと合流。ショーンはウォルターに贈った財布にネガを入れており驚かせるつもりだったという。現地の若者とサッカーを楽しむうちに拉致され、ついには勾留。インターネットの出会い系サイトの運営者が救いにきてくれる。実はウォルターは会社の新人シェリル・メルホフに恋をしており、出会い系サイトで声をかけようとしていたのだ。ただ、ついこの前までのウォルターには取り柄も経験もなかった。この旅のおけげで彼は得難い経験をし、欄には書き込める経験が増えていた。それなのに旅中には、もう必要ないと電話でアカウントの削除を申し出ていたのだった。運営者はあなたは大人気になっていると言う。それほど魅力的な人間に旅が変えたのだった。会社に戻るとシェリルは解雇されていた。ネガをテッドに叩きつけるウォルター。シェリルの息子に旅のおみやげとしてスケボーを届けた(一度息子とスケボーで遊んだことがあった)のだが、数日後メールが届くとそこにはスケボーで遊ぶ息子の姿が。二人は再開し、シェリルは感謝を告げる。立ち寄った路面のキヨスクには最終号のLIFE誌が。表紙には「LIFEをつくった人々へ」の文字に添えられてウォルターの写真が載っていた。ラストでは思わず涙ぐんでしまった。冴えないベン・スティラーが演じたからこそ旅をしてからの彼の凛々しさに惹かれるものがあった。よくある枠組みのヒューマンドラマにくくれないような想像のSF展開も魅力的で序盤にはそんなシーンは多かった。出会い系サイトの一連の問題がうまく活きていなかった(運営者との絡みも)り、テッドとの一騎打ちももう少ししっかりやってもよかったとは思うが、うまいつくりになっていた。一歩踏み出すと変わることが主題として強すぎないことがメッセージを本当に伝えたい場合には逆に有効であると言えることがわかったようにおもう。



世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)

世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)

河野至恩さんの初単著。重要なポイントを言うと「どんな人間が受容してもいいし、それをどんな枠組みで語ってもいい」ということだ。著者が繰り返して強調するのは、例えば村上春樹の英語訳は日本語の原本と同じくらい価値があるということができるしいつかは英語訳こそが原典と言われる可能性である。日本のアカデミアではその言語が堪能にできないと教じてはならないよいうような風潮があるがそうではないと。・・が柄谷行人の英語訳の序文を読んで・・を書いたが、日本語を十分に出来たとはいえない。十分に出来ずとも資料をそれなりに集めれば、その人の立場での論じ方ができる。海外の大学院生などは複数語を自在に操り、その言語環境の中でおもしろく考えてみることができてくる。もう少し掘り下げてもらえればより楽しめたと思う。

アーレントの包括的な著作かと思いきや伝記だし、著述が結構分かりにくい。

うたのしくみ

うたのしくみ

細馬さんの新著。

西洋美術史入門・実践編 (ちくまプリマー新書)

西洋美術史入門・実践編 (ちくまプリマー新書)

西洋美術史』の続編。

トム・クルーズ キャリア、人生、学ぶ力

トム・クルーズ キャリア、人生、学ぶ力

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

疎外と叛逆ーーガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話


アメリカのめっちゃスゴい女性たち

アメリカのめっちゃスゴい女性たち

町山さんのananでの連載をまとめ一部書き加えた一冊。アメリカのすごい女たちを紹介している。アメリカでは・・で、日本と比べ女性の社会進出が進んでいる。だから、べらぼーな人もおおい。元気が出るし、こうしていけないなと変えていく力をもらった本だった。

映画鑑賞2

①『ビッグ・フィッシュ』(ティム・バートン、2003年)★★★★★★
すばらしかった。目元がびしょびしょになった。くだらない法螺話ばかり話す父親(アルバート・フィニー)がいて、息子(ビリー・クラダップ)はずっと腹立っていた。嘘に嘘を重ねるばかりではいつだって真実がわからないからだ。話しによれば、父はビッグ・フィッシュを釣っていたからウィルが産まれた時病院に立ち会えなかったという。でもどうせ出鱈目だ。もう懲り懲りだった。そのうちにウィルは結婚相手を連れて実家に帰る。両親に紹介するためだったのだが、父エドワードはすでに寿命がわずかとなっていた。いい加減「あれは全部嘘だった。死期も近いからほんとのことを話そうと思う」とかなんとか言えばいいのにいまだよくわかんない話をしている。街にやってきて羊を全部食ってしまう巨人をうまいてで追っ払ったとか、夢のように素敵なスペクターの村に一晩泊めてもらっただとか(スティーヴ・ブシェミはキュートだ)、一目惚れした女性の情報を得るためにサーカス団で三年働いたこととか。その女性には婚約者がいたのに略奪して、だけどそこから三年の兵役がのしかかってきて、けれどうまいこと早めに帰ってきたとか(中国の女性双子歌手を口説いてとてつもないルートを使い帰国した)。セールスマンとして活躍し、不況で荒廃した夢のような素敵な街を復活させたとか。エビデンスのない話をいつまでも続ける彼。婚約者もそんな父親の話に聞き入っている。ウィルはうんざりだった。
母親の願いから書庫の片付けを任されたウィルは父の思い出と一致する証拠品を前に、バカにしているだけではいられないと思うようになる。さっそく目ぼしいお宅を訪ねてみた。父の不倫相手だと仮定して。でもそれは間違っていた。この女性はウィルが夢のように素敵な街で最初に出会った少女であり、荒廃を復活させようとして街を買収したときに唯一居残っていた、そして、買収を拒んだ女性だったのだ。父の法螺話がすべて法螺ではなかったと知った瞬間だった。また、買収を拒んだのにもかかわらず家の改修を一手に引き受け家を蘇らせたこと、女性から愛情を示したが大事な妻がいるからと断られたことを知った(この女性が父と息子(魔女)の「作り話」を結ぶ触媒となっているのも惹かれた)。死ぬ寸前の父親の病室にはウィルの出産に立ち会った医師がおり真実を聞かされたが、それは他愛のないものだった。医師はいう。「父の話と私のこの他愛のないエピソードどちらを選ぶ?」と。ウィルはついに父親に尋ねた。あなたはどう死ぬ? 父エドワードは言う。お前が考えてくれと。 ウィルは訊く。どこから始めればいい? 父は言う。この病室からはじめてくれと。ウィルは想像した。病室から車椅子で果敢に抜けだし車に乗ってあのビッグ・フィッシュを釣り上げた池にゆく父を。その父を囲む大勢の「夢の様な人々」を。父は死に、ウィルは見舞った。子供ができて、エドワードのようにウィルも夢の様な人生を否定はしなくなった。この映画はティム・バートンの実人生の映画とも言える。ティム・バートンといえば『シザー・ハンズ』以外は珍品とも言えるくだらない映画のオンパレードだと思ってきた。デコラティブな仕掛けのみの駄作であると言わんばかりに(現に『ダーク・シャドウ』は映画感で観てひどく後悔したものだ)。ただ、なぜバートンがそんな大仕掛にこだわるのかは考えたことがなかった。どうしたって僕らは現実を直視して生きる。真実こそが正しいと思いがちだ。エヴィデンスをだせとすぐに言う。エヴィデンスのないことはバカにする。エヴィデンスのないことを言っている人間はあからさまに侮蔑する。現実に生きること、そしてそこに夢のような世界を投影して楽しく満足に生きること。監督自身が世間の声をものともせずやってきたことがこの映画のなかにすべてある。この映画を観たことでくだらないけれど夢の様なことを全力で肯定したくなり、バートンが愛すべき人だとわかり、自分の人生を最高に楽しいものにしたいと思えた。

②『ブリジット・ジョーンズの日記』(シャロンマグワイア、2001年)★★☆☆☆☆
レネー・ゼルウィガーの主演作であり彼女は本作でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。それはめでたい。ウィキペディアによればレネーを主演に据えることに原作のファンから批判があったらしく、けれど彼女は主演としてやりきったのだから。ではこの映画の魅力とはなんだろうか。ラストは清々しくよかった。ずぼらでデカイパンツしか男性に見せてこれなかったブリジット・ジョーンズがついに可愛いパンツを履いた。しかし掴んだ男は「ブリジット・ジョーンズの日記」を見てしまったことで居なくなってしまう。だが実はブチ切れていたとかそんなんではなくて新しい日記を買ってあげていたというところがにくい。しかも堅物の弁護士のはずなのに雪が舞う中ブリジットにキスをお見舞いする。素敵だ。それっぽい甘いメロディーも背後に流れていてキュンとくる。ではこのラストまでの道程はといえば、散々だったのである。まず、世界観が小さすぎやしねーかと。ブリジットのまわりのダニエル(ヒュー・グラント)とマーク(コリン・ファース)が彼女を取り合うのはよしとしよう。でも描き方ってもんがあるのではないかと私は思ったね。イギリスの話で最後にマークがアメリカに栄転か!?って話になっていったわけだけど、それは別に世界観を大きくしようとしたわけではもちろんなく、彼女の家と彼氏の家と職場が基軸として物語は進む。でもそんな狭い世界にはたいして興味がわくはずもない。狭い世界こそ広い世界に通じる、ってなわけでな本作はないからだ。彼女は最初に出版社で勤め、テレビ局に転ずる。ふたつの現場においては女性なら共感せずにはおれないほど「風変わり」で「個性的」で「ハッキリ」している。でもそんなお山の大将に感情移入してせいせいしたところで一体なにになるってんだろうか。そう思えてしまった。出版社のエロい上司といい感じにいきそうになるもダニエルは浮気をしていて、日記をつけ始めた翌年の誕生日に今度は弁護士のマーク(映画の冒頭のパーティーにもいた)といい感じになるもダニエルが乗り込んできて取っ組み合いになる。でもここでのダニエルとマークの喧嘩はどうでもよすぎる気がした。女をたらしこんで好き勝手している男が急にブリジッドのことが好きでもいいけど。マークはそれとは対照的に堅物で、でも喧嘩してしまうのでいいけれど。それはどこか遠い世界の関わらなくとも自分には関係ない、そんな受け取り方をしてしまった。テレビ局に入局したて(前の会社で上司とやったから退社させられたというと一発採用されたあたりよかった)の消防署のレポートでダメって言われてるのに棒の上から降りてきてしまうのには爆笑させられた。そういう画的な面白さがもっとあれば彼女のキュートさは普遍的に際立ったかもしれない。

③『ウィンターズ・ボーン』(デブラ・グラニク、2010年)★★★☆☆☆
映画としては2点。ジェニファー・ローレンスに1点加点で3点。ミズーリ州に母親と弟、妹と住むリー(ジェニファー・ローレンス)。母親が病んでいるために兄弟の世話は一手に引き受けてきた。貧乏で餌が買えず飼っていた牛を手放すほどだった。近所の人はそんな一家に食材を与えるなど協力してくれた面があった。あるとき保安官が家に訪ねてきて、父親が裁判に出廷しないと家を没収するという。当然貧しい一家にとっては致命的だから、リーはなんとか父親を探し出し出廷させようと目論む。だが父親は見つからない。父の兄(叔父)を訪ねるも邪険にされ、会いに行くなと言われた人物に会いに行っても証言はとれない。おどろおどろしい人間関係が渦巻き、安心して頼れる大人がいないなか、リーは父親を探し続ける。ある者は早い段階で小屋で焼け死んだというし、州境にいるという者もいた。だが真実は掴めない。そうこうしているうちに、リーは軍隊への入隊を希望する。お金を稼がないと生きていけないからだ。でも入隊は認められない。なにせリーは17歳なのだ。大人びており深刻そうな態度を見れば20代半ばにも見えるが少女なんである。ついには母親に導かれて池へ行く。父は死んでいた。のこぎりで両腕を切り落とし、保安官に持っていく。兄弟を見守りながら無事家の確保には間に合ったが、これからも辛い生活は続いていくのだろう。この映画にはまともなストーリーはない。リーがくそみたいな大人たちを訪ね歩き父の居場所を掴めないさまが見せられる。大人たちはリーにタバコや大麻を勧め、目の前で実際に吸ってしまう者もいる。おかしすぎる。そんな辛さに耐えるジェニファー・ローレンスが唯一観るに値するポイントとなっている。あとは雰囲気を楽しむしかない。ホラーっぽい要素もある冷たく禍々しい世界観をどこまで好きになれるかにかかっているだろう。私は雰囲気はストーリーのすばらしさとマッチして初めて輝くと信じているから、この退屈さには耐えられなかった。ただ、アメリカのヒルビリーの文化を如実に切り取っている手腕を鑑みると評価されるべき部分もあるように思った。

④『フタバから遠く離れて』(舩橋淳、2012年)★☆☆☆☆☆
どうしたって表現は相対的なものにならざるをえない。ましてやそれがフィクションではなくノンフィクションであるならば、すでにある表現のあいだに自分の表現があることに意識的にならなければ批評的なものの見方はできないだろう。世間を揺るがすほどの惨事があればマスメディアが映像を全世界に向けて配信するし、個人のメディアが発達した現在ならばなおのこと情報は簡単に行き渡る。一次情報の伝達のつぎにやってくるのが特集を組むかたちでのパッケージングで、さまざまなパッケージが溢れたことは先刻も承知だろう。そして遅れに遅れて表現するドキュメンタリーがやってくる。少なくともそんな立場におかれたドキュメンタリーは、一次情報でも、その次のパッケージングでもない、その次が求められてしかるべきだ。果たしてそれが本作にあったかといえば、かなり疑問だ。このドキュメンタリーはあえてなのかわからないが、非常に中途半端な立ち位置をとっている。一次情報を素材そのままに出している感じもするし、かといって編集という主観を排しているわけでもない。フレデリック・ワイズマンのようにナレーションや文字による説明をすべて排してはいない。文字による説明は次から次へとでてくる。そんな立ち位置が考えぬかれて出てきたかといえばそうではなく、咄嗟に掴んだ表現がそうだった、たまたま性によって支えられているようにおもう。監督の意図がどこにあるのかは分からないが、少なくとも自分は、表現の相対性や固有の意味性にこだわりのないドキュメンタリーは必要とはしていない。そこに存在する意味がしかと述べられる、述べる意欲に溢れているそういうものしか見たくない。権力者を映像で迎える手つきも、被災者にインタビューを向ける手つきも、いいものとは思えなかった。一時的な記録でもない、マスメディア的なパッケージングでもない取りこぼしたものをドキュメンタリーが拾おうとする時、それがどうあらねばならないか、やらせがあったラジオのドキュメンタリーや森達也らの『311』も含めて考えざるをえなかった。

⑤『アラバマ物語』(ロバート・マリガン、1962年)★★★★☆☆
ハーパー・リー(映画『カポーティ』にも出てきたトルーマン・カポーティの友達)の『To Kill a Mockingbird』を原作にした映画。グレゴリー・ペック演じるアティカスは弁護士をしており、レイプの嫌疑のかけられた黒人を弁護することになる。法廷ではレイプ被害者とされる少女メイエラとその父親ボブ・ユーエルによる有罪であるとの証言、かたや被告であるトム・ロビンソンは無実を訴えていた。少女は一度っきりのお願い(庭の棚を破壊する)の対価としてお金を払おうとして家に入ろうとしたところを襲われたという。トムは、一度きりでなく何度もお願いされたという。トムは農業をしていたが農地への道すがらに少女の家があって、週に何度もそういうことがあったというのだ。そのうちに棚の上のものを取ってほしいとお願いされ椅子に上ると後ろから抱きしめられた。椅子からおりるとハグされキスをせがまれたという。トムが断り帰ろうとすると少女はショックで泣き、レイプをしたのかと飛んできた父親によって訴えられたというのだ。だが証言はちぐはぐで、実際にはトムは左手が使えないのに首を締めたことにされたりと齟齬がいくつもあった。陪審員の審議の結果、しかしトムは有罪に。護送車から逃げ出したトムは射殺されてしまう。ボブは暗がりでアティカスの息子ジェムを殺そうとする。お遊戯会へ向かう途中だったスカウトはそれを目撃しており、ボブは亡くなる。ジェムを助けてくれたのは、隣人のブーことアーサー・ラドリーだった。これまでイノセントであることをよしとしてきた主人公たちは、ブーを護るためにという保安官ヘッく・テイトの提案で嘘をつき、ことを荒立てないことにする。
本作は、映画としての構造が複雑であり、ストーリーはいくつにも分割できる。まず最初は、子どもたちの冒険の話だ。ここで主人公一家の現状や、隣人ブーの恐ろしさが強調される。つぎはそのブーと子どもたちとの恐怖の話。そしてアティカスによる黒人弁護の話へとつながっていく。こうしてさまざまな要素があったわけだが、最終的にすべてがつながってくる構成なのだ。冒頭こそ楽しさ溢れていてよいものの、話の運び方は単調だから少し飽きてくる。物語は複雑なはずなのに、その単調さがあるというのが面白い。62年の段階で、黒人の権利を擁護する白人弁護士を描いたのは画期的だったのだろう。げんにアティカスはめっぽうかっこいい。ボブに唾を吐かれようと、しゃきっと凛々しいのだ。子どもたちの描かれ方もよかった。ビルドゥングス・ロマンとして成長の過程が見せられるのだが、例えば黒人弁護に反対する白人たちがアティカスに押し寄せた時にスカウトが無垢な質問で乗り越えたりするところとか、何も分からないような子供であるのに法廷で行われていることと何が正義であるのかというようなことが瞬時に察せられているところとか。

⑥『テルミン』(スティーヴン・M・マーティン、1993年)★★☆☆☆☆
世界初の電子楽器テルミンを発明したレオン・テルミン博士についてのドキュメンタリー。ごった煮のようにテルミンに関係することが詰め込まれており特に丁寧な説明もないから順繰りに知りたい人には向いてないだろう。かくいう私も詳しいわけではないから大いに面食らった。テルミンを開発した後に姿をくらまし(男たちに連れ去られ)ロシアの諜報部で働いていた事実は知らんなかったので驚いた。かつての女性と再会した老齢のテルミン氏が演奏を聴いたり街をふらついたりと、晩年のテルミン氏に焦点を当てていることもこの映画の特徴だろう。

⑦『チャーリーとチョコレート工場』(ティム・バートン、2005年)★★★★★☆
造形センスがずば抜けている。だいたいにおいて映画はストーリにしか興味が湧かないのだけど、それでも驚くほどに世界観の構築がすばらしかった。ディープ・ロイがウンパルンパを演じており、165人分の演技をしていたらしい。それだけインパクトがあり陰の主役と言って差し支えない。ジョニー・デップ演じるウィーリー・ウォンカはチョコレート工場の工場長。従業員によって極秘のレシピをばらされたことで人間不信に陥り、全員を解雇。それ以来人間が工場に立ち入ってはいなかった。そんななか、チョコレートに金のカードを封入、5人限定で工場に招くことに。4人は次々と金持ちがカードを引き当てる中、少年チャーリー・バケットフレディ・ハイモア)も3度目の正直(誕生日プレゼント、祖父のへそくり、拾った紙幣によって)でついにカードを得る。工場は夢の様な世界で子どもたちはついはしゃぎ脱落していく。チョコレートの池に溺れたり、ナッツの殻を割るリスを欲しがり穴に落とされたり、テレポーテーションの機械に入ってしまい板のような体になったり、試作品のチューイングガムを食べてブルーベリー人間になってしまったり。そして残ったチャーリー少年にウォンカは工場を譲りたいという。チャーリーは家族と離れ離れになるのなら工場は要らないというが、ウォンカはついに譲ることを決めた。それは、ウォンカの実家の歯科医院にチャーリーに導かれ行き、父との愛を確信したからだった。工場内には、ボロ屋の元家と同じ家が建てられていた。ストーリーは平板といえるかもしれないが、存分にフィクションに酔わせてくれる。冒頭で書いたように造形センスは遺憾なく発揮されており、全方向エレベーターなどもそのうちのひとつだ。工場からはじき出された子どもたちを宙に浮かぶエレベーターから見送る場面なんかもよい。決してエレベーターが本格的にリアリティーをもって存在しているわけでもないんだけど、世界観の構築が見事だから少しぐらいチープでもそれが良さに思えてくる不思議。人間不信のウォンカが他人に心を許していく過程は大幅に端折られているわけだけど、映画の最初で執拗にチャーリーの家族のあたたかさが描かれていたから成り行きは想定できる。また、『ビッグ・フィッシュ』を観た後では、このホラ吹きのような世界を全身で感受せずにはいられないだろう。

⑧『メリー・ポピンズ』(ロバート・スティーヴンソン (実写)、ハミルトン・S・ラスク (アニメ)、1964年)★★★★☆☆
無知だったのだが、『サウンド・オブ・ミュージック』のジュリー・アンドリュースが主演。64年に『メリー・ポピンズ』、翌年65年に『サウンド・オブ・ミュージック』が公開されたらしい。これってすごくないか? 見ていくと両作は似ている設定だとすぐに気がつく。ジュリーはどちらでも家政婦を演じていて、最初は馴染まない子どもたちを独特のスタイルで教育していく。父親はしつけにうるさい。ジュリーの天真爛漫な明るさに触れるうちに父親の心も変わっていく。こんな共通点がある。なぜ『サウンド・オブ・ミュージック』は製作・公開されることになったんだろう。『メリー・ポピンズ』の成功があったから?それとももともと製作は進められていたのだろうか。気になるところだ。『サウンド・オブ・ミュージック』は大好きな作品なのだけど、それと比べると本作には力強いストーリーはない。差異を強調するとすれば、まずアニメーションと実写を両立させていることが挙げられる。ディズニーが製作したこともあって、最も心躍る部分は実写とアニメが融合した中盤だ。メリー・ポピンズは煙突掃除夫と子どもたちを連れて絵の中の世界に飛び込む。飛んだり跳ねたり自由を謳歌するのだ。子どもたちはこの一連のなかで成長し、楽しさを体で覚えていく。そんなシーンは魅力に溢れている。また、空を飛ぶシーンが非常に多い。そもそもメリー・ポピンズは空からパラソルを持って現れたし(採用試験はメリー・ポピンズ以外は消えてしまったことであっという間に決まった)、登場人物はつぎつぎに飛ぶことになる。これは設定がどうなっているか定かではないのだが、魔法を使えるメリーだけということではなくて、関係なさそうな人も結構飛ぶ。これにはぶったまげた。自由なタイミングでアニメと融合させたり空を飛ばせたりと、気ままなのだ。まるでメリー・ポピンズの心のように。これは子供だったらさぞかし楽しいと思う。子供はいつも空想してしまう。それは脈絡なく突然だ。そんな子供の心のように、見せ場ありきの話が展開する。宮粼駿は脚本よりアニメ的な見せ場によって映画を構成するが、これもそのようなものだ。といったときに、ストーリーがくだらないかと言えばそうでもない。あまりにも飛んでばかりなはしゃぎっぷりにさすがに途中少し飽きるが、父の成長を書ききったのは見事だった。父はバンカーという名前の通り銀行で働いている堅物で、メリー・ポピンズの歌やはしゃぎかたに苛立っていた。途中解雇しそうになったほど。だが、終盤になって子供のせいで上司から叱られる(息子たちが紙幣を銀行に預けず大騒ぎしたため、銀行の信頼が揺らいでしまったのだ)のだが、そんなこと意に介さず歌い出すのだ。メリー・ポピンズが来たことで子どもたちは夢見る悦びを手に入れ、父親は子供に接する楽しさ、世の中を自由に生きていく気持ちよさを実感したのだろう。21世紀という娯楽作とアカデミー賞狙い作との乖離が起きる中、そのどちらも併せ持った作品がつくられていた20世紀中盤の黄金の時代の一作である。

⑨『helpless』(青山真治★☆☆☆☆☆
『共喰い』に感銘を受けまくり『東京公園』にも妙なざらつきを覚えていたこともあって(そういえば『AA』も観ている)長編二作目という初期の本作を鑑賞。冒頭こそ引き込まれ「音楽のセンスとかシンパシー感じるぅ〜」とルンルンだったが、どうにも引っかかりを持てぬままラストまでいってしまった。とくにピストルの音がおもちゃみたいだったところから『その男、凶暴につき』以後の映画なのによくこれで恥ずかしくなかったなとイヤな感想をもってしまった。単調で日本的な無力な感じでそういうのが苦手なので退屈でした。

⑩『わたしを離さないで』(マーク・ロマネク、2010年)★★☆☆☆☆
だんだん最後に近づくに連れて盛り上がるもカタルシスはない。原作はかつて読んだことがあるが(そして忘却したが)内容をうまいこと丸く収めてしまった感じ。『シェイム』『17歳の肖像』と見続けてきたキャリー・マリガン目当てで観た。キャリー・マリガンは主人公のキャシーを演じ、ルース(キーラ・ナイトレイ)とトミー(アンドリュー・ガーフィールドアメイジングスパイダーマン』の主演、『ソーシャルネットワーク』にも出演)と三角関係を築いている。ヘールシャムの教師陣や猶予の出願のために(キャシーとトミーが)出向いたお宅の女性二人のようにうまく転がせば際立つキャラクターがいるのにもったいない。ヘールシャムがどんなところでそれがどのように以後に結びついているのかの描写が弱く感じた。ヘールシャムの異様さをもっと際立たせ、離れ離れになった三人がヘールシャム時代をより強く回想すれば面白くなったとおもう。

⑪『カイロの紫のバラ』(ウディ・アレン、1985年)★★★★☆☆
1930年代のニュージャージー州ミア・ファロー演じるセシリアはウェイトレスをしており失業中の夫を養っていた。夫は暴力的で仕事を探そうともせず飲んだくれ時には女まで連れ込んでいた(ブス)。セシリアの唯一とも言っていい趣味は映画を観ることで「カイロの紫のバラ」もちょうど5回目を観ていた時だった。スクリーンから探検家のトムが飛び出してきてしまったのだ。セシリアはトムと束の間の時間を楽しむ。食事に行くもトムの持っていた貨幣は現実では使えず食い逃げしたりと映画のような展開に。一方、映画館の観客は端役であっても登場人物がいなくなったことに憤り、トムを演じていた俳優のギルにも苦情が殺到していた。ギルは現実世界に出てきてしまったトムを探し出すことに。たまたまギルはセシリアと街なかで出会いトムの居場所をきく。遊園地に隠れていたトムを映画の中に戻るように説得するもトムは嫌がる。トムとギル。それぞれとデートを重ねるセシリア。ついには映画のなかに入ってしまい、トムとまさか結婚か!?というところまでいくも、映画館に駆けつけたギルに止められる。映画の中のことは隠し事がきかないのだ。ギルはセシリアをハリウッドに連れて行ってくれると言う。夫に三行半を突きつけハリウッド行きを決意したセシリア。トムは映画に戻ってしまったしあとはギルだけが頼りだった。だがギルは、ただ映画の中にトムを戻したいがためにセシリアに嘘をついていた。ハリウッドに連れて行くつもりなど毛頭なかったのだ。セシリアは再び映画「カイロの紫のバラ」に目を向ける。そこではトムが結婚相手と踊っていた。うまくできた秀作だった。セシリアとトムの珍道中にしてしまうと普通だったかもしれないが、そこにギルが入ったことで物語は重層的になった。例えば演じていた俳優ではなく脚本家や監督に怒らせることもできたはずなのに戦ったのはギルだったのだ。それぞれとセシリアがデートをするシーンはおもしろかった。また、映画内映画が展開するところもいい。映画の中に入ってきたセシリアとトムを見て映画の中の人物たちが好き勝手してもいいのかも!と気付き、一人が踊りだすところ。あれはいい。そして最終的にはどちらとも一緒になれないのがまたいい。もともと立場がちがうのだからギルは用事さえ済めばハリウッドに戻る。トムは元いた映画に帰る。そうしたときにセシリアに残ったのは映画の登場人物との思い出だった。心躍る投影。もしかしたら劇中のヒロインは自分かもしれないのだ。そうしてセシリアが心躍らせるように、私たちも映画を観ている。

⑫『SOMEWHERE』(ソフィア・コッポラ、2010年)★★★★☆☆
彼女は何作自分の虚空を埋めるための作品を作れば成仏できるのだろうか。『ロスト・イン・トランスレーション』とおなじ雰囲気が漂っている。登場人物たちはいまの物質面では満ち足りた生活に物足りなさを感じている。大事な何かに触れられていないと思っている。けれど積極的に触れようとはしてこなかった。この積極的には触れようとしないのがポイントであり、だからガツガツはしない。はしたないことはきらい。原点からの再出発とかもいやで今の自分からの手の届く範囲での希望の抱き方をする。ストーリーは、ハリウッドスターでホテル暮らしのマルコ(スティーブン・ドーフ)が離婚した元妻から娘を預かってくれるよう頼まれクレオエル・ファニング)と生活をするうちに己を見つめざるをえなくなる話。このようなストーリーはありがちだともいえるけれどやはりソフィア・コッポラの手にかかると空虚っぷりが半端なくなる。見ていて清々しいまでに空虚。だしたくてだせるもんじゃない。相当に子供時代空虚を感じていたんだろう。このように安易に結びつけるのは憚られるが、マルコとはフランシス・フォード・コッポラでありクレオはソフィアそのひとだろう。人気者で世界を飛びまわり常に人がまわりにいるけれど満たされていない父親。それをそばで見守りながら生活には充足させてもらっているがどこか寂しい娘。当初は、成金がどうでもいい自分の悩みを映画という作品を通してしか肯定できないくだらない話として片付けようとも思ったのだけど、この空虚さは異様で彼女にしかだせないものだろう。イタリアのテレビ番組でサンバを踊るはしゃぐ女性たちを見ながら冷めた視線を送るとこなんかは『ロスト・イン・トランスレーション』を彷彿とさせる。基本的には我関せずなのだ。関わると熱っぽくてやだし、積極性を持たなくても独立独歩で満ち足りているからへつらう必要もない。ただそんな自分にはどうしても満足できない。というか、満足できていない自分ということにしないとやりきれない。だから贅沢な悩みをえんえん描いた映画だといえる。けれどその悩みに付随する空虚は誰にでも再現することはできないだろう。

⑬『天才マックスの世界』(ウェス・アンダーソン、1998年)★★★★★★
すごく面白かった。ウェス・アンダーソンの作品は『ダージリン急行』『ムーンライズ・キングダム』と見てどちらもそれなりによかったんだけど雰囲気を楽しんで満足するというような見方になっていた。けれど本作は雰囲気ももちろん楽しいんだけど脚本がすばらしくて感情の機微が複雑でそれがより雰囲気を盛りたてる構成になっていた。ヒューストンに住む15歳のマックス・フィッシャー少年。数学の難問が解けるほどに頭脳明晰なのにやりたいことをすぐにやってしまう性格(最高!!)でクラブを19も掛け持ちして落第を繰り返していた。クラブに入るだけでなく自分でも作ってしまうアクティブっぷり。ある日新任の教師ローズマリー・クロスが入ってくると彼女に惚れてしまう。優秀な彼女と対等に渡り合おうとアラビア語の話をしたり、気に入ってもらおうと水族館を建てようとしたりする(最終的には魚を水槽で飼うことに)。彼女は未亡人であり恋心が芽生えていたのだ。性格がまわりの友達となかなか折り合わないところ同級生の父親ハーマン・ブルームが彼を気に入る。自宅の誕生日会に呼んであげたりアルバイトに誘うものの乗り気ではなかったが資金提供(水槽購入費)以後は仲良くなり友人になる。ある時マックスが脚本・演出を務めた演劇を披露、ブルームとクロスは懇意になりついにはブルームはクロス先生が好きになり自宅に押しかける。それを目撃していたのはマックスの友人ダーク・キャロウェイ。ブルームは妻がいたから離婚協議に入り、クロス先生は退職を余儀なくされる。マックスはこれほど逆上するほど、クロス先生が好きだったのだ。そのうちにマックス自身も・・をしようとして校長の逆鱗に触れ退学、公立高校に編入。ここで・・と出会う。ブルームにも、クロス先生にも憤り同時に友情を感じもするマックス。次第にツンツンして独自の世界にだけ引きこもっていたマックスは、人間関係に少しずつ目覚めていく。ついにはブルームと仲良くなり(校長の入院する病院で二人は再会)、水族館を建てようと持ちかける。ついに演劇もすることになり(テーマはベトナム戦争)、そこにかけつけたクロス先生。マックスの父親も、・・の両親もやっていていた。マックスと犬猿の仲だったブルームの息子(士官学校の学生)も出演した舞台のあと、マックスは・・とダンスに興じる。それを見つめるブルームとクロス。ラストはさまざまな変遷があったマックスとクロス先生がダンスを踊るまわりの真ん中で気持ちを通わせたのだった。いままでこのブログで書いてきた中では一番あらすじが書きにくかった。それほどにマックスの行動や言動は予想がつかず、人間関係もさまざまだ。なんせ父親の年齢ほどのブルームは友人だし、クロス先生には恋心を抱き突き進むのだから。そしてブルームとクロス先生がくっつくのだから。一寸先は闇、めくるめく展開だ。天才マックスというだれにでも思い出があるようなアクティブな黒歴史。楽しかったけれど今思い出すと思い出したくない、相反する感情を抱かざるを得なかった自分。そんな彼がそのまま人生を生きたわけでもなく、転落人生を歩んだのでもなく、ほどほどに人の気持ちが分かり酸いも甘いもあったあとに、しかし、当初では経験し得なかったような状態が待っていたのが憎らしいほどすばらしい。ユーモアが絶妙。脚本がいい。最も心に残ったのはラストのマックスの演劇のインターベンション、ブルームとクロス先生が久しぶりに会話を交わす場面。いい雰囲気になりクロス先生はさり気なくブルームの髪に触れる。これは、ブルームが怯えつつもマックスの父親に理髪してもらった髪だったのだ。言葉を介さずともクロス先生とブルーム、それを仲立ちしたマックス(そして今は誇りを持てるその父)がコミュニケーションを果たした忘れられないシーンだった。

⑭『バーン・アフター・リーディング』(コーエン兄弟、2008年)★★★★★★
めちゃくちゃおもしろかった。脚本を精緻に組めばここまで遊べるんだな〜。ほんのはずみで何かは起こりうるし、それが教訓になるかといえばそれはその件によるというのが結論か。オズボーン・コックス(ジョン・マルコビッチ)はCIAの退職を余儀なくされ暴露小説の執筆を決意。妻のケイティ・コックス(ティルダ・スウィントン)はハリー・ファラー(ジョージ・クルーニー)と不倫。離婚を決意し夫の総資産を調査していた。パソコンのデータを抜き出したCDをジムに落とす。落としたCDを拾ったリンダ・リツキ(フランシス・マクドーマンド)とチャド・フェルドハイマー(ブラッド・ピット)はオズボーン・コックスをゆすることに。しかしチャドとオズボーンが実際に会って交渉するも決裂。リンダとチャドはデータをロシア大使館に持ち込む。ハリーはネットの出会い系サイトでリンダと出会う。チャドはCDのデータだけではロシアに取り合ってもらえないとリンダと話し、オズボーン宅に侵入。不倫相手の家に帰ってきたハリーが射殺してしまう。チャドがジムに姿を表さないことを心配したリンダは、パソコンが使えるジムのオーナーに依頼し、オズボーン宅に侵入調査してもらう。それを発見したオズボーンはオーナーを射殺。リンダはハリーにチャド失踪を言い、あらゆるものに監視されていると思ったハリーはベネズエラに逃亡(ハリーの妻も不倫をして夫を尾行させていた)。オズボーンは死に(脳死、オズボーンがジムのオーナーを白昼堂々殺そうとするのでCIAが殺した)、チャドはハリーに殺され、ジムのオーナーは死亡、ハリーはベネズエラへ。残されたリンダ・リツキはCIAに匿われ、整形費用を捻出させることに成功。次から次へ展開してまったく飽きないし、ジョージ・クルーニーブラッド・ピットが実にハマっていた。いい役者がこのように絡み合うととてつもなく面白くなることがわかった。今まで観た中では最も二人が光った演技をしていた。ジョージ・クルーニーがうまいし、ブラッド・ピットのバカっぷりが可愛い。リンダ・リツキもいいキャラで、なんでもアリのおばさんだ。緻密な群像劇を最後整形費用という笑いで締めるのも可笑しくていい。

⑮『ストーカー』(アンドレイ・タルコフスキー、1979年)★★★★★★
タルコフスキー初見。おもしろかった。もっと退屈な映画かと思っていたぜ。主人公のストーカーが酒場で出会った作家と大学教授とともにゾーンに入る話。ゾーンへは入場制限があり、突破した3人。同じ所に戻ってきたりしながら水のぬかるみのある地帯をえんえん歩き続ける。ときには衒学的な会話で諍いもする。ゾーンにある部屋は言い知れない何かが待っているとの観測のもとそれぞれが思いを抱いて先に進む。結局はなにがあったのかはよくわからない(砂の部屋の描写はおもしろかった)。よかったのはゾーン内部で終わらず戻ってきたところ。酒場のシーンが再びやってくる(オープニングもここだった)。ストーカーの妻は独白する。経緯を見ているからこそ、ストーカーの野郎がとてつもなく変わった男にみえてくるから不思議だ。もっとも好きなのは、内部に突入してからのトロッコの場面。バッグショットがかっこよかった。色の変化のさせかた、唐突な二幕への突入も手法としてグッときた。